板倉勝重像
いたくらかつしげぞう
地図(広域中域詳細
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 板倉勝重は備中松山藩板倉氏の始祖であり、天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入ると同時に小田原奉行兼関東六州地割奉行となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの起こった年に江戸町奉行となり、翌年京都所司代に抜擢され、3千石より一躍2万石の大名となった。当時はまだ庶民の心も定まらず、大坂城には豊臣秀頼が在り、故太閤の恩顧を偲ぶ者も多く、所司代の職務は、上は皇室から下は農工商にいたるもろもろのことを掌握しなければならなかった。
 この八重籬神社御神像は、勝重が京都所司代として在職していた慶長17年(1612)頃、工匠に命じて作らせたもので、伝によれば一時京都福正院に保存されていたが、寛政5年(1793)板倉勝政が八重籬神社創建にあたり、御神像として同神社に移したとされる。素材は欅で、寄木造りの内刳で、生前そのままの姿を克明に表した木造座像である。