成羽武家屋敷
なりわぶけやしき
地図(広域中域詳細
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 山崎豊治は、万治年中(1656~1660)に御殿の造営が終わると、家臣団の屋敷丁の完成に尽力した。山崎氏の御殿を中心として、星原丁、鷹部屋丁、本丁、裏丁、柳丁の五丁が武家地と定められており、そのうち柳丁と星原丁が当時の面影を残している。
 柳丁には、給人格(藩主から土地を与えられた侍)や中小姓(君主の側近に仕えて雑用を務めた侍)が住んでいた。昭和の初期までは通路の真中に溝が通っており、常に敵と対峙せねばならないので、敵を後ろにまわさないためと伝えられている。東の端に御門があり、通行人を監視するため、番所もあった。昔の姿を残すのは、坂田門、井上家、秋岡家などである。
 星原丁には、茶道の師範や鷹匠(鷹を飼い、狩りに従う役)が住んでいた。丁の西端には、星原御門が設けられており、午前六時に開門、午後六時に閉門とされていた。武家屋敷の石垣の高さは、2mである。昔の姿を残すのは、石田家、須藤家、宮本家などである。