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地名をあるく 1.高梁

ページID:0000619 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 「高梁」の地名は小地名大地名いろいろに使われているので、旧高梁市の内の「高梁町」に焦点をしぼって考えてみることにします。
 「高梁」は海抜三〇〇m.五〇〇mの吉備高原の山々が連なる一角にあって北の臥牛山(四七八・二m)付近から南へ細長く延びる高梁川のつくった河岸段丘上に発達した山間の町であります。
 この地域は、九.一〇世紀前半頃には、賀夜郡大石郷に属していました(和名類聚抄)。その後、承久の乱(承久三年=一二二一)後、新補地頭として賀陽郡有漢郷(現有漢町)に在住した相模国三浦氏一族と伝える秋庭重信が臥牛山の大松山に城を築いてのち、高橋九郎左衛門宗康が守護職として拠り、この頃までは、この地を「高橋」と称していたらしく、高橋又四郎範時の時代になって「松山」と改め以後、城下町は「松山」という地名が使われています。「備中誌」に「昔は城下の名を高橋といえるが、元弘(一三三一~三三)・正慶(一三三二~三三)の頃、高橋又四郎居城の時より高橋を改め松山といえるよし山の名を取て土地の名としたる也」と書いています。以後中世城下町「松山」は、天正二年.三年(一五七四~七四)の備中兵乱で三村氏が滅ぶまで諸豪が移り変わってこの地を支配しました。
 近世になると慶長五年(一六〇〇)小堀新助(正次)・作助(政一=遠州)父子が松山に来て城下町の建設が本格的に始まり、次の池田氏から、寛永一九年(一六四二)~元禄六年(一六九三)には水谷氏三代の時代となり、近世城下町発展の時代を迎えています。以後、安藤・石川、そして板倉と藩主の交替を経て幕末を迎えています。明治二年(一八六九)には佐幕派だった松山藩板倉氏は二万石に減封され高梁藩と改称され、「松山」の地名も「高梁」と改められ現代の「高梁」の地名が始まるのです。
 「高梁」の「梁」という字は「リョウ」と読み、やな、はり(うつばり)などの意味があります。「石の水を絶わたるを梁と日う」とか「水橋なり」(字通)と書いています。
 「高梁」という地名の由来については、いろいろの説が言われています。
(1)には、古く高梁川(松山川)を高橋川と呼んでいたところから「高橋」の地名となり「高梁」に変化したのだというもの。
(2)には、「古くは高橋と称したが、高橋九郎左衛門が備中守護として来た際、城主の姓と地名が同じであるのは望ましくないという理由で松山と改め、その後明治初年になって、伊予松山と混同するためもとの高橋にもどし「橋」の字に雅字の「梁」を当てて高梁とした(高梁市史)。
(3)吉備高原の台地の端(松山城のあった地点)の意でタカ(高)・ハシ(端)という意味(地名用語語源辞典)。
(4)には、(3)に近い説で「梁」は「橋」と同じ意味で「高」・「端」で段丘の高く切り立った端のこと(市町村地名語源辞典)などの説があります。
 いずれにせよ地名の文字は、改変されることが多く、由来が複雑であるし意味、語源、来歴がわかりにくいものなのです。
(文・松前俊洋さん)