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地名をあるく 9.鉄砲町

ページID:0000647 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 「鉄砲町」は、旧高梁市「鉄砲町」で古くからの町名の一つでした。北の牢屋小路 (現・花水木通)から駅前の大通りを跨ぎ、南の夷小路まで南北に細長い町筋で、東側の弓之町、西側の高梁川(国道)に沿った町であります。
 「鉄砲町」は、近世松山城下時代、北の御根小屋を基点に町の東・北・西の三方に配置された「中間町」や「弓之町」(新丁)と同じ家中屋敷町の一つで「鉄砲丁」と書かれていました。池田氏時代(元和三年=一六一七~寛永一八=一六四一)足軽を居住させるのに取り立てられた堅町型城下町の一つであります。次の水谷氏の正保頃(一六四四~一六四八頃)には「足軽丁」とも呼ばれていた(「松山城絵図○写」=市図書館)ことがあるらしく、同じ水谷氏の頃の元禄七年(一六九四)正月改めの記録(『水谷史』=「御家内之記」)には「鉄砲町」と「上鉄砲町」に分かれていて、「鉄砲町、長さ四一間(約七四m)、家数八七軒」、「上鉄砲町長さ一町一二間(約一三〇m)、家数二二軒」とあります。その後石川総慶の時代(正徳元年=一七一一~延享元年=一七四四)になると戸数一〇五軒、一〇七人(「増補版高梁市史」)が住んでいました。そして「松山城下絵図○写」(市図書館)によると東側(新丁側)に空家を含め家数五〇、西側(高梁川側)に空家を含め五二軒の家が描かれています。また、延享元年六月調べの「松山家中屋敷覚」(市図書館)には、「鉄砲丁三六軒、内給人屋敷三〇軒、一軒長屋六軒」と記録されています。その後、板倉氏の嘉永 (一九四八~一八五四)・安政 (一八五四~一八六〇)頃には武士の人数も減少し、町の規模が縮小して家数四と長屋四、そして二九人の武士の名が挙げられています(「昔夢一班」)。
 「鉄砲丁」時代の記録をみると、水谷氏の頃が家数も人も最も多かったことが分かります。
 また、江戸初期の正保年中(一六四四~一六四八)には、寛文一〇年(一六七〇)水谷氏によって南町が取立てられるまで、備前往来が下町から牢屋小路に折れ「鉄砲丁」を通っていました。
 川沿いにあった「鉄砲町」は明暦元年(一六五五)や享保六年(一七二一)、明治十三年(一八八〇)昭和九年など多くの洪水の被害を被った記録が残され、当時護岸は竹薮でした。また、鉄砲丁から出火した宝暦元年(一七五一)の大火は「焼け残った家が二軒のみだった」(「増補版高梁市史」)といわれています。
 町の川側には、女性神とされ、大山祇神とその娘の木花開耶姫を祭神とし、古くから生業の神とされた山神社が鎮座しています。
 「鉄砲町」という地名は、城下町の地名として各地に見られますが、鉄砲鍛冶などの職人を集めた町の意味と、高梁のように江戸時代の城下の家中屋敷町として鉄砲足軽が居住した城下地名としての二つの意味があります。
 いずれにしろ、江戸時代初期から大名が鉄砲を進歩した武器として重んじていた有様が今に伝わってくる歴史地名なのです。
(文・松前俊洋さん)