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地名をあるく 10.垣

ページID:0000620 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 有漢町に「垣」という地名があります。県道高梁旭線を有漢川に沿って北東へ進み土居の集落を過ぎると、北から流れ出る川関川に沿う県道栗原有漢線の分岐点(川関口)に差し掛かる。有漢東小学校や岡山自動車道の高架橋が見える場所であります。高梁旭線の道路に沿って山を背にした家並みが「垣元」、「垣上」と続き、南側の丘陵には「垣下」の集落が点在しているこの地域が有漢町有漢の「垣」地名の中心地域なのです。
 「垣」付近は、吉備高原を開析して流れる小さな河谷、有漢川流域の河成段丘面と、侵食された小起伏の丘陵地形面で、枝状に多短谷が展開する地域とで成り、海抜二〇〇.四五〇mの地域なのです。
 「垣」の中世は、「有漢保」という京都天龍寺の荘園だったといわれています。近世になって備中松山藩領となった元禄八年(一六九五)の検地帳には、有漢郷六か村をあげ、その一つに「垣村」が書かれ、石高八八一石余りと記録されて、慶長七年の小堀検地の時の三四九石余りの倍以上に増加しています。庄屋は彦兵衛となっています。(「有漢町史」)後の延享元年(一七四四)からは伊勢亀山藩残領として中津井陣屋の支配地となり、幕末を迎えますが、天保五年(一八三四)の「天保郷帳」によると村の石高八八一石余りと記録され、「旧高旧領取調帳」(慶応期~明治四年=一八六五~七一)にも同じで変化がないのです。当時の「垣村」は垣、小宗、鳥居の木、石寺、金倉、加瀬尾、大石、中尾、奥谷、大宗、有山(「上房郡誌」)の地区で構成されていました。元禄期には、村の屋敷数は一二二戸、土地持百姓一三八人(「有漢町史」)と記録されています。
 そして、近世の有漢郷六か村のうち、長代、川関、垣の三か村は明治九年(一八七六)上有漢村となり、「垣」地区がその中心で、村役場もここにありました。今でもこの地域には共同でまつる外荒神(屋外でまつる)社が残り、昔の荒神講(荒神信仰)の面影をとどめています。
 「垣元」にも裏山に沿った旧道のほとりに荒神社がまつられ、年三回のまつりをしていて「荒神下」と呼ばれています。
 「垣」という地名は、大変興味深い地名なのですが、「垣」「柿」「掻」などの文字がよく使われていていろんなかき説があって難しいのです。
?には、囲まれた場所の意味で、垣根とか塀を意味するもの。蛭田禎男さんは「有漢点描」に言い伝えとして残る地名説の例を書かれています。また、「有漢町史」に「集落と集落の交流の障害になっていた」からとか「垣をめぐらした大きな屋敷があった」からなどの例をあげています。  ?柿の木が多いところ。
?「かけ」「かげ」は、「欠け」の意味から来た 崩崖・崩壊地形を意味し、山や崖が崩れやすい地域とか過去によく崩れたことのある地域につけられる自然地名で、地形から見るとこの意味が妥当なのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)