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地名をあるく 13.日名

ページID:0000623 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
国道三一三号成羽橋西詰の日名口から県道倉敷~成羽線に入ると吉備高原を侵食して流れる日名川沿いに小さな河成段丘面が発達し、両側の急峻な山に挟まれた氾濫原を中心に集落が発達しています。
 また、日名川右岸の谷壁を登った高原上や日名川上流で合流する熊谷川沿いなどにも集落が点在している地域が成羽町の「日名」地区であります。「日名」は、「成羽八幡神社旧記」(「渡辺家文書」・「成羽町史」)に、享禄二年(一五二九)のこととして「成羽之庄六ヶ村末社定り之事」の中に『日名村には当宮地之丑寅御前を勧請有て丑寅御前大明神を安鎮被申けり』とあり、室町時代には「日名村」だったことが分かります。その後の「寛永備中国絵図」(寛永一五年=一六三八)や正保二・三年(一六四五~四六)頃の「正保郷帳」にも「日名村」として村名があげられていて、石高五四五石余と記録されています。
 その後、元禄一四年(一七〇一)の頃になると(「元禄郷帳」)「日名村」が「上日名村」と「下日名村」の二村に分けられて記録されています。
 明和三年(一七六六)の「成羽山崎領村々田畑高之覚」(「山崎家文書」・「成羽町史」)によると「上日名村」五〇三石余、「下日名村」六二〇石余りと書かれています。幕末に(嘉永六年=一八五三)書かれた「備中誌」には、「上日名村」五〇八石余り、枝村に日名畑、和名手をあげ、家数九六軒、人数五〇〇人そして「下日名村」は五六三石余り、家数九四軒、人数四二四人、枝村に渡雁と畑をあげています。「上日名村」の熊谷川の上流の高原(海抜三三〇m)地域には、明和三年の「前掲書」に「福松新開田畑高一五石余り」と記録された山崎領の新開地だった、福松地区があります。「天保郷帳」には「福松新田一八石余」と記録が見られ、その後明治になって「上日名村」に統合されています(一八八六年「地方行政区画便覧」)。
 今では、成羽町大字「上日名」、大字「下日名」となっています。
 現在「上日名」、「下日名」の総氏神で成羽八幡神社の地にあった丑寅御前を勧請したといわれる(「前掲書」)御前大明神(現御前宮)が鎮座しています。
 宮の参道には、安政二年(一八五五)の常夜燈、頭を角刈りにしたような愛きょうのある弘化四年(一八四七)銘の狛犬、境内に立つ安政一三年(一八〇〇)の石燈ろう、県道を隔てたところに御輿の御旅所などが残っていて、栄えていた時代の「日名」の歴史をしのばせてくれています。また、「下日名」の高台には宝永三年(一七〇六)創建と言われる真言宗実相坊があります。
 「日名」という地名は、いたるところに見られます。特に広島県、岡山県、島根県に集中して分布しているのです。吉備高原や中国山地などの起伏の多い地形のところでは、日照りが斜面によって差があり、昔から農業生産に影響するために山間では、特に意識され、日名(日南・日向)と日陰(陰地・隠地)の地名で表現されます。どちらも地域の集落の立地条件を示す地名で、「日名」は「日当たりのよい場所(土地)」「南向き斜面」「日に向かう地」という意味で、自然地名(気
象地名)の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)