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地名をあるく 19.地頭

ページID:0000629 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 川上町に「地頭」という大字地名があります。成羽から「地頭」を経て井原に通じる国道三一三号と「地頭」から県道美星高山市線の分岐点にあたり、中心地は県道に沿って谷口集落の機能をもつ「街路村」を形作っていて、山沿いに名原・西谷・八十石などの集落があります。下大竹川を合流して北東へ流れ出る領家川と南から流れる三沢川、そして北西からの西谷川が合流していて、小さな河成段丘をつくり小盆地となっている地域であります。
 「地頭」は、古代の「和名抄」に書かれている下道郡弟翳郷に属していたといわれ、室町時代中期以後には領家・七地などとともに「手荘」という京都相国寺や、広島県三原仏通寺の荘園(「日本荘園史大辞典」)となっていました。当時の史料は乏しくよく分かっていませんが、『長享元年(一四八七)の「蔭涼軒日録」一〇月二六日の条』に、「毎年二三〇貫文が寺納され去年は不熟のため二〇〇貫文が寺納」とあり、また、「代官の妙厳と下代官の高橋兵庫介との間に争論が起こっている」(「川上町史」)ことが分かっています。
 中世の「手荘」という荘園の範囲は不明ですが明治期の「手荘村」付近に比定されるのかも知れません。領家の地名も残っていることから、地頭も下地中分・地頭請 (一定したの年貢を領主に納入し荘園管理をする制度)などを通じて一円を支配していたことは確かなのです。地頭が誰か、どこに館を構えていたのかはっきりしませんが、旧役場のあった付近が「掘之内」といわれているところから地頭の屋敷があったところだろうといわれています。「地頭」は近世から明治二二年(一八八九)までは、地頭村でしたが、その後は手荘村の大字の一つとなりました。
 近世になると三村・毛利の支配から幕府領―旗本領―幕府領(小堀氏)―成羽藩領(山崎氏)―成羽藩領(水谷氏)―幕府領―津山藩預所―幕府領―嘉永六年(一八五三)以降福山藩領となり幕末を迎えるという複雑に領主が交代しています。地頭村の石高は、江戸時代の「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五・六頃)七一九石余、そして天保五年(一八三四)の「天保郷帳」六九八石余りと減少しているのです。元禄六年(一六九三)、字八十石分が地頭村から分かれ、旗本水谷氏の布賀陣屋ができて、八十二石余が水谷勝時領に編入されています。万延元年(一八六〇)頃には、「阿部伊予守様御城下備後福山六一三石余、地頭村庄屋足助虎之介」(「備中村鑑」)と幕末の石高が記録されています。
 上市の中堂には、往時「地頭」の中心としてにぎわったであろう場所をしのばせる小路の入口に大師堂が建ち、元文四年(一七三九)銘の延命地蔵や享保三年(一七一八)銘の六地蔵の石仏、そして、猿を刻した道標などが残っています。
 「地頭」は、各地の荘園や公領(朝廷・国司の領地)に、鎌倉幕府の御家人の中から任命され、年貢を徴収し国衙が(国の役所)に納め、その土地を管理し警察権をもって治安維持にあたりました。すなわち、「地頭」は荘園制支配に由来する地名なのです。荘園は本家―領家―荘官という支配構造をもっていました。文治元年(一一八五)頼朝が全国の荘園に「地頭」を配置しました。特に承久の乱(一二二一)で朝廷側に勝利して「新補地頭」を置いたのです。ほとんどの「地頭」が東国の御家人を西国へ任命したのですが、地頭の荘園経営への介入が激しくなったため、領主は荘園を領家方と地頭方に分け、干渉し合わないという契約を結ばせた(下地中分)のです。「地頭」という地名は中世の荘園地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)