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地名をあるく 22.高山

ページID:0000633 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「高山」という地名は現在の川上町「高山」と「高山市」の二つの大字名として残っています。「高山」は昔の「高山村」、領家川の上流域で川上町上大竹の北方に位置しています。東に川上町七地、西に川上町大原や「高山市」があります。
 この付近は海抜四五〇m以下の「川上面」といわれる小起伏の地形が広がる地域で、山砂利層と呼ばれる礫層(「高瀬層」)が分布する代表的な場所なのです。そして、八〇〇万年前の玄武岩で出来た残丘状の須志山 (五二二m)がそびえ、集落は侵食された小起伏の谷の斜面やくぼ地に分布しています。
 また、西にある「高山市」は、西側を広島県との県境に接し、南は井原市芳井町東三原に接しています。「高山市」付近は、標高五五〇~六〇〇m前後の吉備高原面の占める地域で「高山市」の集落の東には、玄武岩の残丘といわれる弥高山(六五四m)がそびえています。中心の集落は高原状にできた街村(列状村落)を形成していて、江戸時代から大正の頃まで栄えた市場集落で毎月五の日に開かれる三斎市としてにぎわいました。特に穴門山神社の祭礼日の旧暦二月・六月・一〇月の「巳の日の市」は有名でした。
 「高山市」が笠岡東城往来の中間地点でもあり、成羽高山市往来も合流する場所で、物資の集散地として市場町・宿場町として、穴戸山神社の門前町として栄えた町でした。今でも牛市場の跡や
博労座の跡、商売繁盛を願うえびす宮、上市や中町などの地名など昔の繁栄の面影を残しています。 中世の記録「吉備津宮流鏑馬料足納帳」(「岡山県古文書集」)の中に、「康正三年(一四五七)分流鏑馬料足之事五百文こうやま直納」と書かれ「こうやま」の地名が見えています。一六三八年頃の寛永備中国絵図に「高山村高五八〇石余、うち松山藩領一〇三石余、山崎家治領分四七七石余」となっていて松山藩領が後の「高山市村」にあたり、山崎領が後の「高山村」に含まれています。その後の「正保郷帳」(一六四五~四六頃)で「井戸高山村」四七七石余幕府領。
「高山市村」一〇三石余と二つの村に別れ、江戸時代終り頃の「天保郷帳」(天保五年=一八三四)には「高山村」七六〇石余、「大原村」四〇石余、「高山市村」一三八石余と三か村に別れています。以後明治二二年から昭和二九年まで再び「高山村」となり、昭和二九年から川上町の「高山」・「高山市」などの大字名となって現在に至っています。「高山村」は畑作地帯で水田率は幕末で約二六%と低く、農民の生活も苦しく、年貢未納の百姓が続出、その上村役人の不正に対する不満、年貢の軽減などを求めて「村方騒動」(「川上町史」)が各地で起こっているのです。一方「高山市村」は、市場集落が発達していた天明八年(一七八八)の「備中国川上郡領家村明細帳」(「川上町史」)に「当村諸用相調者 成羽町高山市村ニ而 買調申候」と書かれ、当時から成羽と高山市が商業の中心だったことが分かるのです。
 高山市から北へ権現谷の参道を下っていくと穴門山神社が鎮座しています。寛永九年(一六三二)に本殿焼失したため同一四年松山藩主池田長常によって拝殿が再建され、寛文九年(一六六九)水谷勝宗が本殿を再建寄進していて、本殿は県指定の重要文化財となっています。そして、弥高山は釣鐘状の残丘で展望が素晴らしく県指定の名勝になっていて観光地として素晴らしい場所なのです。まさに「弥(もっとも、いちばん)高山」なのです。
 「高山」という地名は各地に見られ「神山」「甲山」「高山」「向山」など共通した意味があります。例えば、その地域で目立つ山があれば「神の山」だったし、「信仰の山」だったのです。そういう山は神秘的で人々は昔から大切にして見守ってきました。「高山」は背後にある高い山(神の山)に由来する地名なのです。
(文・松前俊洋さん