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地名をあるく 27.田原

ページID:0000638 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「田原」は、成羽川の上流、田原ダムのある備中町 惣田付近で、西から流れ出る東城川(帝釈川)と、北から坂本断層線谷といわれる坂本川の二つの支流が成羽川へ合流する場所から坂本川に沿って上った付近に見られる地名であります。
 左岸の成羽町側に「 中野田原」、その下流に「 布寄田原」、川を隔てて(右岸)備中町側に「田原上」「田原中」「田原下」の集落が旧新見街道沿いにあります。
 この地域は、標高三五〇mから六〇〇mの準平原面(侵食小起伏面)を侵食して流れ出る坂本川に沿った断層谷のわずかな平地と山麓の斜面を中心にした地域で、「田原」は近世の「東油野村」に属していました。
 新成羽川ダムや田原ダム付近の地形は、穿入蛇行(山地で峡谷を成したところで川が曲流を繰り返すこと)の激しい幼年期の地形だった場所で、河谷部から急 峻 な坂道を登り切ると「 野呂」と呼ばれる広い高原上の村が広がり、古くからの産業の中心であり生活の場所でした。
 平安時代の「和名抄」に出てくる「下道郡 湯野(由乃)郷」は、現在の東・西油野付近が遺称地といわれていて、古くから西油野を中心とした高原上の「野呂」が中心に開けていたことがわかるのです。
 備中町「田原」は東油野村の河谷部にある集落で「正保備中国絵図」には、現在の田原橋の上手のところに「是迄川船上ル」と書かれていて、近世に田原惣田の河岸(江戸時代河川などに設けられた船着場)まで高瀬舟がさかのぼっていたことが記されています。この田原河岸には問屋や小売商が集まり年貢米の輸送、特産物の楮、漆、米、鉄、薪炭などの搬出で賑わい「野呂」からの道が集まって市場機能をもつ谷口集落として「田原」が発達したのです。
 このように、河岸場の問屋が繁昌するのは後背地である「野呂」(東油野・西油野・西山など)の広狭によって決まるのです。『西油野では年貢米を東油野の「野呂」から急な坂道を河岸場の「田原」まで人馬で運び出し、高瀬舟で玉島まで輸送していました』(「宝暦一〇年西油野村明細
帳」=「備中町史」)。「河岸」と「野呂」を結ぶ道は、この地域の人々の生活を支える主要路であり、また、高瀬舟の河岸場へ通じる道の発達は成羽川の水運による輸送を促し、高瀬舟の船路の開発など河川交通の発達を促したのです。
 明治時代になると、車輌(人力車・馬車・大八車など)の発達が見られ、そして、学校などの施設が谷口の集落に移り、大正、昭和になって自動車交通の発達とともに、経済の中心が「野呂」から川沿いの河岸に移ったのです。
 また、明治四一年(一九〇八)には、吉岡鉱山が盛況となり、三菱合資会社は「田原下」から成羽 古町まで吉岡鉱山専用軌道を開通させ、「田原」は人車軌道の終点として、しかも坂本への馬車輸送の起点となって繁盛したのです。
 大正時代になると「客トロッコ」や「馬トロッコ」も開始されたのです。
 現在でも「田原」から下へ成羽川左岸に「トロッコ道」が残されています。
 現在「田原」の町並みには昔の面影はありませんが、東油野村庄屋を務めた田原河岸問屋・丹下小十郎 (元倉屋)の墓が残っていて、当時の繁栄ぶりを思わせる墓碑銘が残されています。
 「田原」という地名の意味は「その地域において、大切で広い平坦地」を意味することが多く、川沿いの平坦地で、草などが生い茂るような場所で多く見られる地名なのです。
 すなわち「水田の多い平坦地」を意味する自然地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)