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地名をあるく 41.下原

ページID:0007965 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「下原」は現在の成羽町にある大字地名で、成羽川の右岸、河成段丘上に東西に細長く広がっている地域で、 鶴首山 (三三一m)や愛宕山(三七〇m)の北麓に位置しています。対岸には成羽町成羽、そして東には落合町福地、西には成羽町星原や佐々木があります。

 近世から明治二二年(一八八九)までは川上郡下原村でした。元和三年(一六一五)から山崎家治が入部して成羽藩が成立、続いて水谷勝隆が入部して成羽藩領、万治元年(一六五八)から旗本山崎豊治が交代寄合(将軍に直属する武家の家格の一つ)として領主となりました(のち成羽藩領)。その後、一〇代義柄時代に幕末を迎えています。

 近世の下原村は成羽藩、旗本山崎氏の陣屋町として栄えました。「備中誌」によると、村域は東西一九町一四間、南北九町二六間としています。寺では龍泉寺(真言宗)、山崎氏の菩提寺の桂巖寺(曹洞宗)、本光寺(日蓮宗)、正玄寺(一向宗)などをあげ、産物に白谷烟草、谷は白谷をあげ、宝永年間(一七〇四〜一〇)二代義方により奉納されたという納涼花火や愛宕社をあげています。

 初代(後期山崎氏)山崎豊治は初代成羽藩主家治の二男で、成羽知行所に入部すると陣屋の造営を行いました。五万石の領主として入封した水谷勝隆が陣屋の築造や陣屋町建設に着手しましたが、寛永一九年(一六四二)松山へ移封となり、未完成に終ったため水谷氏の事業を受け継ぎ、東方に拡張して本格的な陣屋(御殿)を完成しました。そしてこの陣屋を中心にした新しい陣屋町建設にも努力しています。「成羽町史」によって山崎氏御殿跡を見ると、御庫門(成羽小正門)その東に大手門、御作事門(美術館入口)、陣屋の西外側にはす池(外園跡)などが描かれていて、当時の陣屋(御殿)が、いかに大規模だったかが分かります。

 また、豊治はこの御殿を中心に陣屋町の経営に着手し、東の町屋と西の侍屋敷に、柳丁御門と本丁御門を境として区切っています。本丁の川手中央には一〇代義柄が設置した藩校の勧学所、川手東端の本丁御門のあった角に勘定所があって、今もその建物が残っています。町屋には新町、続いて本町をつくり、本町には上之丁、次之丁、下之丁と区分した下原御門まで町通りができていました。

 延享三年(一七四六)頃の下原村は、対岸の成羽村に比べて大変さびしい町だったらしく、天保四年(一八三三)領主は成羽村の商売を停止するなどの通達を出して(「前掲書」)、古町の商人たちを下原の陣屋町に移して町の充実を図っています。御殿の大手門に続く総門前の河岸には対岸の古町に渡る総門渡しがあって新見往来に通じていました。

 本町や新町の町通りを中心に南北の小路もつくられていました。今でも陣屋町としての面影を残す下原の町は、山崎豊治の入封から三代堯治の頃にかけて完成したといわれ明治維新まで山崎氏領の陣屋町であり高瀬舟の川湊として発展した「下原」でした。現在、鍵型に折れ曲がる町通りや商売繁盛を祈願したえびす宮、高瀬舟の川湊のなごりをとどめる金毘羅宮常夜灯などが町ごとに残り、昔の「下原」の町の面影を今に伝えてくれています。その後の「下原」は明治二二年(一八八九)東成羽村となり、明治三四年(一九〇一)から成羽町大字「下原」となって現在に至っています。

 「下原」という地名は、各地にあり分かりやすい地名の一つです。「下」は川の下流、低いところ、低地などを意味し、「原」は開(はら)、広(ひろ)、平(ひら)の意味で川沿いの平坦地や広い平地、開墾地を表す自然地名の一つで、日常生活にもよく使われている地名なのです。
(文・松前俊洋さん)