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地名をあるく 47.宮瀬

ページID:0007987 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 巨瀬町に「宮瀬」という小字地名があります。吉備高原の山々に囲まれ、北西の祇園山(五五〇m)の南麓から流れ出る有漢川の支流、宮瀬川(谷)の南向き斜面に家が分布しているところで、現在「宮瀬上」「宮瀬下」に分かれています。

 「宮瀬」のある巨瀬町一帯は歴史も古く、平安時代の「和名抄」に出てくる備中国賀陽(賀夜)郡巨勢郷の遺称地といわれる地域で、中世になっては、上房郡巨勢荘といわれる荘園(田地を中心にした私的所有地)でした。例えば、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には高野法印、貞曉の領、その後室町時代の応永三年(一三九六)には京都仁和寺門跡領や、京都相国寺領、応永一四年頃、長講堂御影堂領(皇室領)などの荘園でした(「日本荘園史」)。また、応永元年(一三九四)の「吉備津宮惣解文」にも巨勢郷狩人二〇〇人、矢作親真が献上したことが書かれています(「岡山県古文書集」)。

 戦国時代には、川面の寺山城に陣を移した毛利勢が古瀬東西の麦を薙いだ(「備中兵乱記」)ことが伝えられています。

 近世には「宮瀬村」は毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、元禄六年(一六九三)再び幕府領、同八年松山藩領となって明治を迎えています。江戸時代前期の「正保郷帳」には古瀬小条村一三一石余、古瀬三吉村一五四石余とあって、いずれも松山藩領となっていて、後の「宮瀬村」に当たる地域なのです。三吉村の枝村に宮瀬村が、小条村の枝村に祇園村が書かれ、小条村は園尾一帯、祇園村は和名谷一帯に当たるといわれています。幕末の「天保郷帳」には「上房郡古瀬宮瀬村」とあり、石高五八五余りと記録されていて、後の「旧高旧領取調帳」にも同じ石高があがっています。「備中誌」によると「宮瀬村 古瀬郷の内」として「東西一里二町、南北九町、家数八五、人数三七四人」、そして祇園宮をあげ「常に詣人多し」と書かれています。

 祇園山にある祇園寺は山岳仏教の聖地として栄えたところで西日本各地から多くの人々のお参りでにぎわいました。今でも弘法大師の伝説も残り、参道には石仏やお堂が残っていて当時のなごりを留めています。祇園寺のふもとの参道沿いにある「宮瀬」は聖地を守る大切な地域だったのです。

 補陀落山感心院祇園寺は真言宗善通寺派の寺院で、本堂(観音堂)は延宝六年(一六七八)松山藩主水谷勝宗が再建したと伝えられ、本尊の千手観音、脇士の不動明王や多聞天(毘沙門天)があります。境内には県指定文化財の延文三年(一三五八)銘の石造宝塔や、正保二年(一六四五)水谷勝隆の再建になる鎮守杜の牛頭天皇杜や樹齢千年余りといわれる天狗大杉があります。

 八月末には古式豊かな祇園踊りが行われ、保存されています。

 「宮瀬」は明治八年(一八七五)六名、片岡、柳分と合併して巨瀬村となり明治二二年(一八八九)から上房郡巨瀬村となって塩坪に役場がおかれ、昭和二九年高梁市巨瀬町の小字となりました。

 「宮瀬」の「宮」の地名は信仰地名として各地に分布しています。「宮」は「神のいるところ」「神のおわしますところ」「御屋」(「字通」・「大言海」)の意で、「宮瀬」という地名の由来は祇園寺(祇園宮)の祭られた神聖な山、祇園山から流れ出る川(谷)からついた地名なのです。
(文・松前俊洋さん)