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地名をあるく 49.上ノ丁

ページID:0007992 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「上ノ丁」という地名は聞いたことのない人が多いのかもしれません。現在は消えてしまった幻の地名なのです。「上ノ丁」は江戸時代から明治の初年まで松山城下にあった町(丁)名の一つなのです。

 旧松山藩士国分胤之の「昔夢一班」には「伊賀町」の次に「上ノ丁」が書かれています。巻末の「松山城下之図」や、この図に補筆した「幕末の松山御城下」の絵図(信野友春著「備中松山城及其城下」)に伊賀谷右岸の「伊賀町」と並行した秋葉山(標高一九〇m)の南麓に「上ノ丁」が描かれています。現在、順正短期大学がある付近で、頼久寺の東側(裏側)に当たり、「伊賀町」や「頼久寺町」の一部に含まれています。江戸時代の「上ノ丁」は家中屋敷町でした。石川総慶・六万石時代((正徳(一七一一〜一六)〜享保(一七一六〜三六)〜元文(一七三六〜四一))頃の「松山城絵図」には「上ノ丁」の地名は見えず、秋葉山のふもとに長州寺・梅岩寺・頼久寺より梅岩寺の借地・御前太夫(神官)・明地・矢場・そして頼久寺領・畠などが、また道より谷側には百姓・三軒の家中屋敷と百人組長屋が描かれて、伊賀町の地名が見えているのみで、ほとんどが頼久寺領となっています。絵図にある梅岩寺や長州寺は石川氏が伊勢亀山へ転封の時移転させたといわれ、その跡地に矢場が設けられたのでしょう。

 石川時代のあと、延享元年(一七四四)、伊勢国(現三重県)亀山から入封して頼久寺の東側に家中屋敷を取り立てました。延享元年頃には家中屋敷二・給人屋敷(家臣のうち地方知行あたえられた者)一・一棟長屋三が付近にあった(「松山家中屋敷覚」=市立中央図書館)のですが、その後(嘉永二・三年頃=一八四九・五〇頃〜安政初年頃=五四頃)の「上ノ
丁」には、北側に矢場と真孝流柔術師範の織田杢兵衛とけいこ所、他三人の武士が書かれ、南側には四軒の武士が上げられています。(昔夢一班)。また、慶応年間(一八六五〜六八)頃は、家中屋敷七・世帯数七として、 上家中 (紺屋川より北の家中屋敷)の一つに「上ノ丁」を上げています(「増補版高梁市史」)。

 矢場では、弓の練習が行われ、幕末頃に大組足軽や同心に弓術を奨励するために、正月には賭的も行われました。また、盆になると盆踊りが行われ、移封してきた板倉勝澄は、藩士の師弟に団体をつくらせ、赤穂義士などの尚武的な歴史上の事柄をテーマに、黒装束に帯刀、はかま着にたすき姿で円陣をつくって踊る「仕組み踊り」を踊らせ、家中の者には桟敷に敷物を敷かせ弁当持参で見物させました。このように「仕組み踊り」は、盆の行事として嘉永の頃(一八四八〜五八)まで盛んだった(「前掲書」及び「昔夢一班」)といわれています。

 「上ノ丁」の町は、天保三年(一八三二)と天保一〇年(一八三九)の大火で類焼していますが、被害の詳しいことは分かっていません。「上ノ丁」は、明治初年(一八六八)までには頼久寺町の一部となり、今では西は頼久寺町、東は伊賀町となっています。

 「上ノ丁(町)」という町名は、全国各地の城下町に見られる地名なのです。「上」は方向や位置、地位などを表して、「うえ」の意味なのです。例えば高い所・川の上流・陽の出る方・中心に近い方などを示す地名として使われています。「上ノ丁」は下にある「中之丁(町)」に対してつけられたもので、いずれも城下町地名なのです。
(文・松前俊洋さん)