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地名をあるく 50.落合

ページID:0007995 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「落合」という地名は各地に見られますが、今回取り上げるのは高梁市落合町です。

 落合町は、近似、阿部、福地、原田の大字からなっています。現在、近似地区は高梁川の右岸にあり対岸は高梁市街地となっています。阿部地区は国道三一三号が落合橋から分れて成羽川の北岸を西に向かい、高梁川と成羽川の合流する場所より西に位置していて、成羽川のつくった氾濫原の平地と北側の斜面、そして西は吉備高原が成羽川へ落ち込む狭あいな地域とで成っています。現在、氾濫原に当たる低地には、工場やスーパーなどができ、以前水田地帯だった平地や北の斜面には住宅が増えて都市化し、市内で唯一の人口増加地区となっています。平成20年10月現在の人口は三七〇〇人、戸数一四一七を数え、高齢化率約一六・六%と市内で最も率が低い地域となっています。

 福地地区は国道三一三号沿いの境谷から成羽橋詰を支流の福地川に沿って北に入った地域で今では福地川のホタルや備中神楽で有名な西林国橋の生家がある場所として有名です。原田地区は谷口集落の井谷から北へ登ると三五〇〜四六〇mの吉備高原上にある地域で原田と川乱があります。高梁市自然公園の新城池や花崗岩の奇岩がそびえる八畳岩や観音霊場などが見られる地区です。

 「落合」の中心を占める阿部地区は歴史も古く、昔から「あい」と呼ばれていたり、「阿恵村」(「備中集成志」)とも書かれています。古くから交通の要地として栄え、成羽往来が松山村の青木から渡し船で渡ったところの、阿井の渡しから西に向かっていました。阿井の渡しは天正六年(一五七八)尼子の旧臣山中鹿介幸盛が播州上月城から毛利輝元のいる松山城へ護送される途中、天正七年七月毛利の家臣によって暗殺された場所で、江戸時代になって松山藩士前田時棟が足軽佐々木郡六とともに供養碑を建てた場所なのです。赤羽根には赤羽根古墳群があって、赤褐色で粘土質の土層の中から多くの石棺墓が発見され、北向きに埋葬された仰臥伸展葬の人骨の頭部には、いずれも赤色顔料が塗布されたもので、五世紀から六世紀前半の古墳といわれています。また、四年前に発見調査された赤羽根イナリ古墳は四世紀から五世紀の古いもので、県下でも大変珍しい直径一四mの円墳で葺石を伴う円丘上に五基の箱式石棺が確認され、頭部に赤色顔料がほどこされた人骨や勾玉などが出土していて現在史跡公園として保存されています。

 「阿部」の地名は戦国時代に出てきます。成羽渡辺家文書の「八幡神社舊記」(「岡山県古文書集」)に『天文一三年(一五四四)三月二六日阿部牢人井上新九郎を討ち取った功により渡辺甚兵衛に阿部庄内の内田七郎左衛門尉跡職を宛行われている』とか「備中兵乱記」に『四月中旬白地(福地)に陣を移した毛利勢が阿部・西ノ野の麦を残らず薙いだ』などと記されていて阿部や福地の地名が出ています。江戸時代には川上郡阿部村でした。江戸期から明治にかけて成羽川や高梁川の河川交通も発達し、境谷、小瀬、市場には高瀬舟の川湊もあって船問屋が栄えていました。明治二二年から落合町の大字となっています。

 「落合」という地名は「阿部」(「あい」)と同じ意味を表す地名で、高梁川と成羽川が合流する氾濫原の低地を意味し、「川が合う所」とか「合流点」を意味する自然地名なのです。したがって「落合町阿部」は同じ意味を重ねて使っていることになるのです。
(文・松前俊洋さん)