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地名をあるく 51.長代

ページID:0007998 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 有漢町に「長代」という地名があります。「長代」は有漢町の北部にあって上有漢に含まれる地域で、北の四峰山 (四五二〜五一三m)の南に広がる「長代」は吉備高原の山がうねうねと続き、長代池の上流から流れ出る長代川流域は西組といわれる地区で黒岩・陰地などの集落があり、陰地の対岸の日当たりのよい台地には日南の集落が点在しています。長代川と北東から流れ出る鴨谷川が合流する付近から「大山みち」に沿って北へ狭い谷筋をさかのぼると、中組の集落が南向きの斜面や小さな平坦面に見られます。その中組下から左奥に入ると古刹広大山臍帯寺があります。そして、「大山みち」を北へ登ると真庭市井殿・宮地へと通じています。

 鴨谷川流域のくぼから東側は吉備高原の台地となっていて、北の四峰山や三角形の山容を見せる嶽山(五〇五m)が、展望できる地区で水田も開けていて神明、鴨谷、黒木、新井寺、才ノ尾、台地状になっている中村などの字地名が分布して、この地区一帯を大谷地区と呼んでいます。かつては「長代」の中心になった地区(本村)で綱島屋敷、学校、役場があった場所で正に「中村」だったのです。

 「長代」の中世については、 至徳四年(一三八七)閏五月の「天龍寺土貢注文」に山城天龍寺領(「日本荘園史」)の時代があったらしく、応永一九年(一四一二)四月下旬及び五月二九日年紀のある北野社大般若経奥書の「有漢保東長代真福寺住僧上野澄尊」などの記録が見えていて(「有漢町史」)有漢一帯が「有漢保」という荘園だったことが分かっています。

 近世には、上有漢村とあって長代村、川関村、金倉村は枝村でした(「前掲書」)。はじめ(延宝年間=一六七三〜八一)松山藩領で「上有漢村」一三三三石余(「備中集成志」)でしたが、その後の元禄八年(一六九五)の検地では「長代村」として石高一〇三二石余となっていて有漢では上村に次いで石高が多かった(「有漢町史」)のです。検地によって石高が増えると地域の農民のくらしは一層苦しくなり検地に対して抗議しています。そして延享元年(一七四四)には伊勢亀山藩「残領」となっていて、石高は元禄時代と同じく「長代村」一〇三二石余(「天保郷帳」・「旧高旧領取調帳」)で石川氏が支配していました。そして明治九年(一八七六)に垣村・川関村と合併して再び上有漢村になりました。

 寺院には真言宗臍帯寺があります。本尊は聖観音菩薩で脇士に不動明王と毘沙門天像があり、もとは広大山細尾寺 (棟札=「有漢町史」)と言われていたが、享保の頃から臍帯寺と変わったといわれ、安産観音の寺として有名でした。室町時代松山城主秋庭元明の時に松山城の鬼門(艮の方向)にあたり祈願所として崇敬された寺といわれています。また大谷地区には黒滝山西福寺(真言宗)があります。神社は字ごとに荒神社などがありますが産土神の上有漢神社が大谷畔高の台地に祀られています。

 「長代」という地名は、いろいろいわれていますが、「代」は「白」とか「城」の意味もあるのですが「田」とか「田地」を表現することが多く、大化の改新の古代から「田の単位」として用いられてきました。また「丘の上」や「山腹の平坦地」を意味することもあります。いずれにせよ、台地の広がる大谷地区の「広い田地」を意味し「長田」と同じ地名なのでしょう。
(文・松前俊洋さん)