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地名をあるく 60.大工町

ページID:0008018 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「大工町」は現在の高梁市大工町のことで、北は伊賀谷川、南には荒神町が、東には柿木町と向町が、西側には鍛冶町があります。

 江戸時代には「大工丁」と書かれ備中松山藩城下町の一町で、武家町の一つでした。城下町の下級武士の住む家中屋敷町として取り立てたのは池田備中守長幸が城主時代の元和三年(一六一七)の頃のことでした。今では城下町時代の家並こそ残っていないが町筋が残り、当時は町の中央部に位置し、町人の町鍛冶町と武家町の柿木丁に挟まれた短い竪町型の町並を伝えているのです。そして南北の道に交差する横町の道は鍵形に折れ曲がって城下町時代を留めています。

 『水谷史「御家内之記」』(市図書館)によると、元禄七年(一六九四) 戊正月改、として大工町長さ四十八間(約八六メートル)、家数十軒、給人(地方知行をあたえられる者)家敷十軒と書かれています。「増補版高梁市史」によると下家中(紺屋川=伊賀谷川から牢屋小路=花みづき通りまでの家中屋敷)屋敷の大工丁は、水谷氏の元禄六年(一六九三)には家中屋敷一〇軒、世帯数一〇軒、石川時代の延享元年(一七四四)には家中屋敷一一軒、世帯数八軒、その後の慶応(一八六五〜六八)頃には世帯数五軒となっていて、幕末になるにしたがって世帯数は減少しています。「昔夢一班」や「松山城下屋敷絵図」(市図書館)によると嘉永(一八四八〜五四)・安政(一八五四〜六〇)頃の大工丁は、通りを挟んで東側に馬廻まわり格(親衛軍的性格で、家臣団の中心となる)と中小姓(大名や旗本の下級家臣)の屋敷二軒、西側に中小姓・表医師と大小姓格二軒(内一軒表医師)計三軒の家中屋敷が記録され、それぞれ氏名が書かれています。また、町筋の南端、東西の路地を隔てて浄土真宗高梁山正善寺があります。本尊は阿弥陀如来で、寺伝によると文禄二年(一五九三)内山下に釈祐安法師が創建し、たかはしの地名を偲び山号をつけたといわれ、四代住職釈大圓法師の延享四年(一七四七)に現在地に移ったが、天保三年(一八三二)と天保一〇年(一八三九)の大火のとき町屋とともに罹災(被災)しています。この寺には城下町時代の御用商人で藩札を発行していた大阪屋の菩提寺で、墓も残っています。現在の正善寺墓地の北東の角(路地を柿木町へ出たところ)には番所がありました。

  江戸時代、城下町の家中屋敷町だった「大工町」も今では当時の竪町筋と横町筋(小路)そして寺が当時の面影を残すのみとなっています。

 「大工町」の町名は近世城下町の地名には違いありませんが、城下町のできた頃に、木工職人か建築職人が居住したところから町名が生まれたと考えられますが、武家町としての記録しかありません。
(文・松前俊洋さん)