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地名をあるく 65.星原丁(星鷹丁)

ページID:0008030 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 成羽の町の南、成羽川の右岸に鶴首山(三三一メートル)という中世の砦のあった山があります。その山の裾一帯には、現在、美術館や地域局、成羽小学校などがあり、ここは、陣屋町発展の元となった後期山崎氏初代山崎豊治(家治二男)が水谷勝隆が着手した陣屋築造の事業を受け継いで本格的陣屋(御殿)を造営したといわれる「山崎御殿」の跡なのです。

 大手門、御庫門、作業門などの石垣が残っています「算木積み」で角をしめた立派な打込ハギの石組みなど、万治元年(一六五八)豊治が入部して新陣屋の完成に取り組んだ近世の石組みが見事です。

 山崎豊治は「交替寄合表御礼衆」(五千石)といわれる家格の旗本で将軍に直属する旗本の中で二〇家の内に入る「表御礼衆」で参勤交替の義務があって大名扱いされ、江戸城での殿席も「柳之間」だったといわれています。

 今も残る下原の町は豊治が陣屋を中心に取り立てた陣屋町なのです。陣屋町とは、江戸時代、代官や旗本が居館(御殿)を中心にまちづくりをし発展した町で、待屋敷、町屋、寺院などが計画的に配置された町です。また、本来防備も考えた城下町の機能も持っている町で、三万石以下の小大名が多く、特に備中地方が多かったのです。例えば、木下氏の足守陣屋、戸川氏の庭瀬陣屋などがあります。中でも成羽陣屋は、代表的な陣屋町で江戸時代の竪町型の町筋に横丁(小路)が何本か造られ、当時の人々の生活道路としての面影を残しています。そこには、当時の町人の信仰の対象となったえびす宮や金比羅宮、愛宕神社の名称などが小路に残っています。そして、御殿の大手門から成羽川に向かって通じるところに陣屋町の総門を設け、川添いから古町へ渡る新見往来の玄関とし、御殿付近には、重臣を住まわせ、本丁御門を置き、鍵型に折れ曲げて、御殿の付近に供小姓や徒士を配置して裏丁とし、給人格や中小姓を住まわせた柳丁の武家町をつくりました。柳丁の東の端に御門と番所を置いて警備を固めています。今では、成羽の町の武家町で柳丁は武家町の風情をただよわして、陣屋町時代唯一郷愁をさそう町筋でしたが、武家屋敷の一部を留めるのみになっています。

 鶴首山のふもとの御殿裏には、水谷勝隆が陣屋をつくるために山裾を流れていた成羽川の流れを北へ変える土木工事(大聖牛)をしましたが、今でもその水路の跡が一部残っています。その後、山崎豊治が五千石の成羽領主として御殿を造営しましたが、御殿より西(上手)の備後街道筋に「星原丁」(星鷹丁)という武家町を取り立て陣屋町の西を固めたのです。

 星原丁への入り口付近(現成羽小学校下)に鷹部屋丁を配置し、藩主の鷹狩用の鷹の訓練などに従事した武士を住まわせました。続いて西の街道沿いに「星原丁」の武家町を取り立てていました。今でも高い石垣の上に家を構えていた江戸期の石垣や屋敷が残っていて武家町らしい風情が残っている町です。屋敷へ入る石垣の階段は必ず直角に折れ曲がって玄関へ昇るように作られていて、漆喰の土塀で囲まれた屋敷が並んでいて武家町としてめずらしい町並みです。この街筋の西の境には、星原番所と御門を設け午後六時に閉門していました。柳丁の武家町と同じように星原丁にも町通りの真ん中には溝があって道も今より狭かったのです。

 星原丁の武家町には、当時の武士たちの信仰が厚かったという荒神社が祀られ、そこは「荒神屋敷」といわれ、この町一七名の共有地でした。荒ぶる神として武士が信仰していたことがしのばれるのです。

 山崎豊治が万治二年(一六五九)に菩提寺として創建した華嶽山桂巌寺(曹洞宗)があります。墓地には代々領主の墓碑や燈籠が並んでいます。また、寺の玄関や鬼瓦には、「板扇」の家紋(「山崎扇」)が見られます。

 本丁にあった藩校勧学所で儒学を教えていた福地出身の信原徳太郎は、安政三年(一八五六)鷹部屋町に藤陰塾(「育英学舎」)を開いていました。

 「星原」という地名の由来はよく分かっていませんが地域の人は伝説として、「この西の備後往来の山側に大きな石がある。これは空から長い尾を引いて星が降ってきた。そこに経津主神社を建てて祀りました。この石は、またぐと悪いことが起こるといわれています。」こういうことから「星原」とか「下原」という地名が生まれたというのです。こうなると伝説をもとにした地名ということになります。
(文・松前俊洋さん)