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地名をあるく 68.玉川町神崎

ページID:0008036 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「神崎」は玉川町の大字地名で「こうざき」と読み、成羽川が本流の高梁川に合流し、落ち合う場所で、成羽川・高梁川の右岸に位置しています。成羽川沿いには「上神崎」があり、合流して流れる下流の高梁川沿いには「下神崎」の集落があります。「上神崎」の対岸は落合町阿部で、以前は船頭のいた渡し舟で結ばれていました。

 成羽川と高梁川が合流する付近は、水量も多く、水深が一〇メートルぐらいあって深く、流れも渦を巻いていて昔から危険な場所として有名なところでした。地形も標高三八六メートルの神崎山が川が合流する場所へ向って断崖絶壁の岬となって突き出ていて、以前はこの岬の上に土産神の神崎神社が鎮座していました。付近は、近世から高瀬舟による交通が盛んになると、交通の難所として船頭たちに恐れられ、航海の安全を岬にあった神崎神社に祈願して通行していたといわれ、まさに、船頭たちにとって神のミサキ(御崎)として信仰されていた場所だったのです。

 「文政十二年(一八二九)阿部落合における遭難」として記録が残っています(「成羽町史」)。「五月六日小高瀬(小さい高瀬舟)で小七(船頭)の舟が阿部村落合にてねじ(転覆)、下流の森脇にてなみ入り、ぬか淵(地名)で沈み問屋の荷物が濡れ、内十品見え申さず、いろいろ尋ねさがしたところ、十品之内鉄三束など見つかったが、残り五品のうち弁柄五個とよせ木二個が見つからず、そのため吹屋長尾屋へ頼り、問屋などの力を借りて六月十日頃相済し候」などとあり、高瀬舟で吹屋の弁柄などを積んでいた、成羽本村の小七の舟が合流付近で転覆し失った荷物の責任を長尾屋や問屋などの助けでけりをつけている記録なのです。このように、合流付近では遭難事故もあったのです。

 「神崎」は近世以降高瀬舟の船頭集落として、また、川湊として栄えたところで、上神崎には「ゼンキイ」という猿尾があって船溜りがつくられ、「今屋」とか「浜屋」などという船問屋があって、高原上の下切地区から薪炭、木材などを「神崎」まで牛馬で積み出し、船積みし、下流の里へ輸送し、里からは瀬戸内の塩や干鰯などを積んで帰って来ました。「七日程経て帰って来ると、神崎の子どもや留守居をしていた女房たちは合流の付近迄、迎えに出掛け、航行の無事を喜んだ」(下神崎 中村義さんの話)そうです。

 明治になると「上神崎」に五人の高瀬舟の船頭が、「下神崎」に三人の船頭がいました。

 「神崎」の地名は一七世紀中頃の「正保郷帳」に玉村一三〇石余り・松山藩領とあり、玉村の枝村(枝郷)として神崎が書かれています。

 今では当時の面影がなくなりましたが、昭和四七年の大洪水以降河川改修が行われ、岬にあった神崎神社や龍王神社は、山のふもとに移され、境内に安政四年(一八五七)の地神や、文政一三年(一八三〇)の石灯籠、明治一二年銘の石鳥居が、往時の面影を残しているに過ぎません。

 「神崎」という地名の由来は、成羽川と高梁川が合流する場所に突き出た断崖絶壁の岬に神社が祀られ、ふもとを航行する高瀬舟やいかだの船頭たちの信仰の対象となった「神が鎮座まします岬」(「神のミサキ」=「カムサキ」)からきた信仰地名なのです。
(文・松前俊洋さん)