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地名をあるく 72.笠神

ページID:0008044 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「笠神」は、備中町西油野と平川の間を流れる成羽川の河谷で、備中町田原及び惣田から上流域にあって現在はこの峡谷をせき止めて田原ダムや新成羽川ダムができている地域で、「龍頭」といわれる地名でも呼ばれています。北側の備中町油野や南側の備中町平川には標高五〇〇m~六〇〇m前後の吉備高原面が発達していて、小起伏で多短谷の地形が広がっています。

 この吉備高原は中新世末期(約五〇〇万年前)に形成されたといわれ、成羽川の河谷が深く高原を開析(高原面が侵食され谷が刻まれること)して、三〇〇m~四〇〇mぐらい谷壁が落ち込んでいて、成羽川の谷がV字の形に深くけずり込まれた峡谷で、穿入曲流(川がうねって曲流を繰り返していること)となっている場所なのです。地域の人々は峡谷が蛇行して流れる急流の様子を竜にたとえ、ここには竜が住むという伝説も生まれ、竜神信仰も伝えられて「龍頭」という地名にもなったのです。

 山の斜面は四五度ぐらいの傾斜で新成羽川ダムの堰堤付近で谷の深さ五三〇m、山と山の峡谷の幅約一kmあってせき止めるにはもってこいの場所なのです。備中町の生活面は吉備高原面が主で、底地と高原面の連絡路はすべて、若い支流の谷に沿った古くからの道でした。谷底の笠神地区はダムの湖底に沈んでしまい、住民は家や土地を捨てて転出したのです。

 中世の人々は、狭くて急流であった「笠神」の難所に船路を開く工事をした記録を大きな安山岩質の凝灰岩に刻んで残しています。国指定重要文化財の「笠神の文字岩」といわれるもので、現在はダムの底にあって見えませんが、レプリカがダムの上の道路の脇に建てられています。日本の中世の河川水運開発記念碑としては最も古くて貴重なものなのです。

 「笠神の文字岩」に書かれているのは、『笠神に、船路を造ったことを記す。この工事は徳治二年(一三〇七)七月二〇日に起工して八月一日平し終わった。笠神龍頭の瀬上下に連なる十余か所の瀬に船路を開くことは、日本無双の難所に工事することであるから薩埵の慈悲大工の〇(不明)懐を奉じないわけにいかない。そこで諸方に勧進すること一〇余か月にして遂にこの難所を平し得ることができた』と「龍頭上下瀬十余ヶ所」とは、今の備中町小谷~田原間だろうといわれています。岩には「笠神」(龍頭)付近の難工事だった船路の開発について記されているのです。船路の開発の目的は、当時の備中北部や備後東城付近の鉄の輸送や諸物産の輸送路の確保にあったのです。「工事の発起人は四郎兵衛という人で、大勧進は成羽にあった善養寺(今はない)という寺の尊海で、本山だった奈良西大寺の実専が来て奉行を務めています。そして石切大工は伊行経(有漢町の臍帯寺の板碑、石幢の井野行恒と同一人物といわれる)だった」とあります。

 近世になっても備後の国の鉄は、東城から成羽へ送られていましたが、笠神付近は通船が不能となって、明和年間(一七六四~七一)には東城まで通船したが、すぐ廃路となっています。この頃の記録に「笠神難所之義、川浚にて通船難成候得ば、右壱ヶ所之分瀬替御勝手次第御計ひ可被成候事」(明和五年(一七六八)東城・成羽総代・福地村庄屋十兵衛
あての「一札の事」=「備中町史」)とあるように、川浚では通船ができないかも知れないので、その場合「瀬替」も勝手次第であると書いています。

 寛政九年(一七九七)に当地を訪れ銘文を見た代官の早川正紀は文字岩の隣りの岩に所感や歌を刻んでいます。

 備中町の「笠神」は付近を龍頭とも呼び、歴史的にも地形的にも日本で有名な場所なのです。今では、ダムに水がたたえられ、V字谷で峡谷だった川の姿が違っていますが、すごい地形のところだったのです。

 「笠神」という地名は「龍頭」と同じく、地域の人々は川や谷の地形の険しさを、竜にたとえたり、笠形の陽石にたとえて神秘な自然を見ていたのです。人間にとって不思議なものは信仰につながることから生まれた地名なのです。
(文・松前俊洋さん)