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地名をあるく 77.臥牛山

ページID:0008053 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 高梁の市街地の北にそびえているのが「臥牛山」(標高四八七メートル)です。高梁川の左岸、南へ流れ出る高梁川が臥牛山の山麓から河成段丘を形成していて、その段丘上に高梁の市街地が広がっています。

 「臥牛山」は、北から大松山(約四七〇メートル)、天神の丸(約四八〇メートル)、小松山(約四二〇メートル)、前山(約三二〇メートル)の四つの峰に分かれていて、西側は急峻な崖で高梁川に落ち込み、北では佐与谷に急傾斜をなして南のすそは小高下谷川となっています。

 臥牛山の峰や尾根には中世から近世にかけての砦跡や城跡が残っていて、現在ほとんどが国の史跡指定地となっていて、昔から地元の人々は、「お城山」と呼んで親しんでいました。

 臥牛山は、城の防備上樹木の伐採が行われず、国有林となったため、二三〇種余りの樹林が保存され、アラカシ・ヤブツバキなどからなる照葉樹林とモミ・コナラ・シデ類からなる暖帯落葉樹林などが自然林で保存されていて、それにツル植物も見られ、原生林のような雰囲気をかもしています。また、昆虫類も豊富な山で、四季折々の景色もすばらしい山なのです。

 「備中松山城及其城下」を書いた信野友春先生は、その著書の中で「臥牛山の自然は真に雄であり美であり又雅である」と、そしてまた「何ぞや、七百年来の城地たりし歴史的背景を有すことである」と臥牛山の魅力を称えています。

 現在、小松山の山頂には、天守閣が現存する日本で最高所にある山城として、国指定となっている小松山城跡があります。私たちは、この小松山にある近世の城を中心にした諸城塞だけを「松山城」と思っていますが、実は臥牛山の峰(尾根)全体が、中世から近世にかけての「松山城」なのです。城の歴史を学ぶには、最も勉強になる場所なのです。

 「松山城」は、承久の乱(一二二一)の後、新補地頭(鎌倉時代新たに補任した)として、有漢郷に相模国(神奈川県)から着任した秋庭三郎重信が延応元年(一二四〇)に北の大松山に砦を築いたのが創始だと伝えられています(「備中誌」)。その後、元弘元年(一三三一)高橋九郎左衛門宗康が城主として、後、南の小松山に出城を構えていたらしく、弟の大二郎が居城していた(「備中府志」)といわれます。

 この頃の砦は、よく分っていませんが、防御施設の痕跡が残っていて、当時の人々が大地に働きかけて築き上げた土木工事の跡が見られます。中世から江戸時代の初め頃にかけては、瓦や石垣は使用していませんが、曲輪(郭)と曲輪のまわりには、堀切りや土塁などを築き、削平地として人工急斜面の切岸をつくっているのです。このように中世の砦の縄張りを観察できるのです。

 大松山には、その後、高氏、後期秋葉氏を経て、上野氏(頼久)、庄氏が城主となって大松山、小松山を砦として利用しています(「中国兵乱記」)。天正二年(一五七四)、三村氏のとき、毛利、宇喜多の連合軍と臥牛山を中心とした備中諸城をめぐって激戦が繰り返され(備中兵乱)ましたが、この頃の「松山城」は小松山城に中心が移っていて、臥牛山一帯には大松山、天神の丸・相畑・佐内丸・太鼓の丸・小松山・馬酔木の丸など出丸や出城が設けられ、臥牛山全体が大要塞の地になっていました(「備中兵乱記」・「中国兵乱記」)。また城主の居館であった御根小屋跡も石垣のみが残っていますが、松山城とともに建物や縄張りなどについてはよく分っていません。慶長二年(一六〇六)頃から小堀新助(正次)・作助(政一)父子は、松山城(近世の)と御根小屋の修築をしています。その後には天和元年(一六八一)水谷勝宗が松山城の大修築を行っています。今に残る二重の天守閣その他の櫓や石垣、番所跡などを残す近世の城跡、そして中世からの砦跡や堀切の跡など「臥牛山」は全山が広義の意味での「松山城」の歴史を語ってくれているのです。近年、教育委員会の発掘調査によって、天神の丸の天神社が明らかになってきて、臥牛山の頂上に守護神がいるという戦国時代の天道思想と天主の思想を思わせてくれるのです。

 「臥牛山」という山名は、山の形から老牛が腹ばいになり、草を食べている姿(「老牛伏草山」)に似ている(「備中誌」) ところから、その名で呼ばれるようになったといわれています。
(文・松前俊洋さん)