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地名をあるく 79.寺山

ページID:0008058 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回紹介する「寺山」は、吉備高原の山々が穿入蛇行して流れる高梁川の左岸にできた河成段丘の緩斜面を見降ろす山で、昔から川面の人々が「城山」と呼んで親しんできた山で、標高三一〇メートル、三つの尾根すじが北西から南東に延びて、川面地域の背後にそびえていて、裾野に広がる緩傾斜面には、久賀や押野、西屋、市場の集落が点在しています。

 「寺山」は中世の山城があった山で、本年になって「寺山城跡」の山として市の文化財に指定されました。「寺山」のある「川面」は、中世になって地名が見られるようになります( 吉田東伍・大日本地名辞書=冨山房)。「大石郷」の頃には「今詳ならず、高梁及び川面などにや曰へり」とあげ「今川面村という」と説明し、加夜郡大石郷に属していたように書いています。しかし、寺山城に関する記録がなくて歴史が明らかでありませんが、城主は難波六郎経俊と記録があって(「備中誌」)、のち経清、経里、親経らが居城していたと伝えられ、応永年間( 一三九四~一四二八)には、三好阿波守尊春が城主だった(「上房郡誌」など)と伝えられ、応永一五年(一四〇八)には、南側の山麓に招宝山吉祥寺を建立し、嘉吉元年(一四四一)に没したといわれ、松山城主秋庭氏に滅ぼされたともいわれています。

 その後、元亀三年(一五七二)には、杉三郎兵衛尉重知が寺山城へ入城したこと、そして備中兵乱の時には毛利方の小早川隆景軍に攻められ、重知は松山城へ撤退してのち、小早川隆景が寺山城へ陣を移し、付近一帯の麦を刈り取って松山城の三村軍を兵糧攻めに重知は毛利軍へ投降したことが「備中兵乱記」に書かれています。

 「寺山」にある城跡は、自然地形をうまく利用した中世の「山城」で、要害(険しくて攻めにくい)にした縄張り(曲輪)のようすがはっきりと分かる史跡なのです。現在の寺山に残る縄張は、この「城」が使われなくなった最終段階の姿をとどめていて、「寺山」の城跡を歩くことで中世の城の防御の工夫を読み取ることができるのです。高低差を利用し、山をけずり、塁線に意図的な屈曲をくわえ、尾根筋を遮断した堀(堀切り)を竪堀や横堀にして人工の急斜面(切岸)をつくり、敵の突入を防ぐといった戦国の城の重要な機能が読みとれる「寺山」なのです。

 縄張り=曲輪は削平地として中央の屋根上(三一〇メートル)に主郭(「本丸」)を配置し、そのまわりには、階段状に腰曲輪や帯曲輪を南東・南西にのびる尾根上につくっています。そして主郭の東端には大きな「堀切り」も見られ、この付近が北からの虎口(入口)になっていたと考えられています。「主郭」の東に「東の郭」(「東の丸」)があり、その周りには、階段状に曲輪が配置されています。また主郭の西側には堀切りを隔てて「西の曲輪」(「西の丸」)が延びていて、周りにはやはり堀切りや腰曲輪が残っています。そのほか、「東の曲輪」(郭)の東には「堀切り」があって「馬場」といわれる壇が南東に延びています。

 寺山のふもとに三好尊春が建立したといわれる曹洞宗招宝山吉祥寺は、本尊は釈迦牟尼仏で応永十年(一四〇三)の開創と伝えられ、尊春の位牌が伝わっています。また「寺山」の付近には、古い歴史を語る「屋敷」の地名や「大門」「惣門」などの地名や大元八幡宮が残っていて興味が尽きない地域なのです。

 「寺山」(「城山」)の地名は、「寺のある山」として川面の人々は親しみをもって呼んでいたのでしょう。この山はまさに「城山」・「城郭のある山」だったのです。
(文・松前俊洋さん)