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地名をあるく 86.大竹

ページID:0008367 印刷用ページを表示する 掲載日:2013年2月27日更新

 川上町に「大竹」という地名があります。現在の「上大竹」と「下大竹」です。江戸時代は「大竹村」でしたが、寛文三年頃(一六六三頃)になって、「上大竹」と「下大竹」に分かれて、今の川上町の大字になりました。「上大竹」の東側に「下大竹」、その東、領家川の下流には地頭が、北には高山、南には仁賀、西には井原市芳井町があります。以前の大竹村は、江戸初期には、幕府領小堀氏の支配から成羽藩山崎氏の支配の後、松山藩池田「近似」は、平成十四年、広報たかはし十月号の「地名さんぽ」で取り上げましたが、内容も浅く、不十分だったので再び書くことにしました。

 氏の在藩所領となり、成羽藩水谷氏(勝隆)の支配となり、のち再び幕府領、そして成羽旗本山崎氏(のち成羽藩)領となって、幕末を迎えています。

 大竹村が上大竹村と下大竹村に分かれたのは「川上町史」によると「正保年間( 一六四四~四八)に宇根方組・谷方組に分かれ、万治年間(一六五八~六一)に各々、下大竹、上大竹と命名した」とあり、明和三年(一七六六)の「山崎文書」の「御領分村々田畑高之覚」に下大竹村四六六石余、上大竹村七六四石余と記録されています。

 上大竹、下大竹は標高三〇〇~四五〇メートルの小起伏状の吉備高原上とその窪(谷)地に当たる斜面に集落が分布する地域で、気温も高原上と低地では異なり、起伏の多い地形の特色を表す、日名、陰地、迫、くぼ、畝とか、上、下、谷などの付く、小地名が大変多く見られるのです。

 東へ流れ出る領家川は、山あいを曲がりくねって流れ(「穿入曲流」、または、「はめ込み蛇行」という)、道路も領家川に沿って走り、集落も道路に沿って、「列状村落」状になっています。その領家川に多短谷の小さな川が合流しているのです。

 上大竹地区の高原上には、神野(古くには保屋とも)という、すり鉢状の窪地の溶食台地があります。ここは表流水が石灰岩の台地を溶食して、地下水となって吸い込まれるドリーネが見られ、吸い込み穴のある凹地が点々とあって、隣り合ったドリーネが連合して、ウバーレという大きな窪地状の台地となっている珍しいカルスト地形のところなのです。神野は畑作中心の地域で、赤っぽい土砂で被われていて、弥高山から東のこの付近には、川上層(高瀬層)といわれる山砂利層が広がる地域で、地形学でも代表的な場所なのです。

 神野には、石を祭神にした榊山八幡宮があります。祭りには、花笠をかぶって舞う渡り拍子が残されています。この八幡宮を、下大竹の清実八幡宮に観請したと云われ、下大竹の野呂に鎮座している産土神です。

 下大竹には、地域の人々が城山と呼ぶ、標高三五〇メートルの馬の背の形をした山があります。この山の頂上に池があって、真ん中に龍王宮を祀っていて、昔から人々はこの山に登って、雨乞いをしていたそうで、今でも年に一度、この池の掃除に集まり、祈禱して祭りをしているそうで、この山を古くから大切にしていたのでしょう。城山の名称は「備中兵乱」のとき、三村氏の出城、国吉城が東にありました。毛利方が国吉城を攻めて来たとき、三村方が国吉城を守るため、周辺に陣地を築いたときの陣に使った砦の一つなのです。

 下大竹の高原上に上がると、西に玄武岩の弥高山(六五三メートル)がそびえ、北には同じ玄武岩の須志山(五二四メートル)が頭をとがらせ、どちらも玄武岩の残丘といわれています。弥高山は、井原市芳井町を通って北へと登る深い谷の千峰断層の谷が噴火した溶岩で埋められた火山なのです。

 この「大竹」地区は、全国で珍しい「地形の教室」といわれるところで、天然記念物に指定されている「大賀デッケン(押し被せ構造)」といわれる古生代の石灰岩層が逆転して中世代の層の上になっているという場所や大賀台地の地表水をドリーネから地下水となって流れ出る「沢柳の滝」(天然記念物)や上大竹の相坪川上流の「藍坪」といわれる県指定の滝坪が四個並んで残っている地質学上、貴重な滝坪があります。地域の人々は、ここで雨乞いをしていたと伝えられ、また猿が滝坪で染物をしていたという伝説も残っています。

 「大竹」という地名は、上大竹の西にそびえる大岳山(五五〇メートル)の山名から取ったものか、はっきりしませんが、大竹の「竹」は山腹の急傾斜地とか、絶壁・崖など高低のはげしい地形を表す地名で、岳、丈などもそうなのです。また、たぎるから水が激しく流れるという意味もあって、たきから変化したとも考えられます。いずれにせよ、この地域らしい地形を表現した自然地名なのです。
(文・松前俊洋さん)