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山田方谷を語る 一 山田方谷と両親

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ページID:0042928 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 山田方谷は江戸時代末期に活躍した郷土の偉人です。彼は文化二(一八〇五)年、現高梁市中井町西方に生まれ、親や教師の指導に謙虚に従い、自分を優れた人間にするため努力し、豊かな学識と実践力を身に着けました。

 藩校である有終館の教師となり、家塾の牛麓舎でも教育に情熱を燃やしました。藩主板倉勝静をも教えたことから、絶大な期待と信頼を受けて松山藩(現高梁市)の財政を担当することになり、困難な藩政改革に成功して、質素であっても心豊かに安心して住めるよい社会にするため、誠意をもって全精力をつぎこみました。この方谷について、これからお話していきます。

山田方谷の名は球、幼名は阿璘、通称は安五郎と呼ばれました。彼はその生涯を通じて母を強く慕い、その教えを心に刻んで生きていきました。方谷六三歳の時、建てた母の墓碑(先妣墓碑)にその思いがよく出ています。

 『亡母は西谷信敏の娘、小阪部に生まれ、私の父に嫁ぎ、球と弟・妹を生みました。亡き父は常に我が家はもと武門であったが、のち農民になったのを嘆き、私を丸川松隠先生に習わせ、祖先を継いで家を興すよう教えられました。母は必ず傍で父の言葉に同意して、私の頭をなでて、「いとしい子よ、必ずお父さんの志を成しとげるのですよ。しかし、時の勢いにのって走りすぎるとつまずくものだよ。お願いだから、生涯を立派に終えておくれ」と言われ、私は幼児でしたがこの言葉を肝に銘じて忘れません。(中略)母が没する前、母は疲れ切って病床に伏しておられました。球が枕もとで、別れを悲しみ泣いていると、私をせきたてて師の家に往かせました。間もなく病が悪くなったと聞いて、深夜走り帰りましたが、すでに息が絶えていました。年は四十歳でした。父もまた翌年に亡くなり、私は、十四、五歳で両親を失いましたが、両親の普段の教えを思うと悲しみ
で胸がつぶれるようでありました。そこで発奮して苦学しました。ようやく松山藩に仕官がかない、次第に藩の要職を歴任しました。のち病を理由に退きましたが藩の重大事には必ず相談にあずかりました。幼少の頃に母が頭を撫でて諭した教えに今初めて応えることができ、これがこの碑を建てるのを待った理由です。母が我が家に嫁いだ初めの頃の家は貧しく、父を助け家業に励み、収入を増やし、のち僅かながら生活の余裕ができました。それでも竹のかんざし、木綿の衣服で質素な事は昔のままでしたが、私の学資は少しも惜しみませんでした。私は才能のない者ですが、その遺産で学業を成し得て、今日達し得たのは両親のおかげです』と書かれています。


 山田方谷の父、五郎吉は家の再建をめざして苦学した人です。若い時は親族である中津井の室で働いて、仕事が終わると夜遅くなってもその家の長老の戸を叩いて学問を教えてもらいました。方谷が勉強を怠けると、夜遅くても起きて教え下さった長老に申し訳がないと戒めました。方谷は深夜に読書で疲れが出て居眠りがつくと、父の戒めを思い出し、びっくりして座り直し、読書に励みました。父の教えがなければ、毎日子供たちと遊んでおり、読書・学問の大切なことが分からなかったと言っています。


 母、梶は方谷が三歳頃から文字を書く練習をさせ、四歳になると父親は大きな板額を作って方谷に書かせて、周辺の神社に奉納しました。奉納額は将来の家の再興を願う意味があったと思われます。山田家の守り神の天神社に奉納された「天下太平」の額は現在中井小学校にあり、高岡神社にも同じ内容の額があります。作州の木山神社にも「風月」「竹虎」の板額が奉納されていて、それぞれ小さい手形が押されていて、幼い方谷を偲ぶことができます。これを見た参拝者が、その見事なのに驚き、四歳の子供の書ではあるまいと疑いました。それを聞いた母親は方谷を連れて木山神社に参り、その人の前で書いたので、感心して認めたということです。


 中井の近隣に居た人の子孫が聞いたという話に、その人は馬を飼っていたのですが、時々母と方谷を乗せて城下に行ったとのことです。城下の書の先生に習いに行っていたのかもしれません。
(文・児玉享さん)