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山田方谷を語る 十 文武の充実

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ページID:0042937 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 諸外国が日本の開国を迫ってきている不穏な時代にあって、藩主板倉勝静は松山藩の力を充実し、伸長するため、藩士の文武の質の向上に力を入れました。火事以後仮校舎であった藩校の有終館を立派な学舎にし、藩士の子弟に7、8歳より学習することを義務としました。武道は盛んでしたが勝静は「文なき武は誠の武にあらず」と言って、儒学・歴史・文詩など、人として良く生きる学問を学ばせました。熱心な人には寄宿舎に宿泊して学ぶことを許可し、更に、意欲があり遊学する人に、二人扶持の奨学金を与えています。武術では熊田恰など多くの人が諸国の達人のもとに修業に行き、学問では進鴻渓、三島中洲など幕府の学問所、昌平黌で十数人が学ぶなど、小藩で最も多くの人が学んでいます。こうして有能な人材が育ち、のちに藩政の上で活躍することになるのです。

 また農民や商人の学校として玉島の教諭所、総社の八田部教諭所、松山に鍛冶町教諭所ができ、後に勤王の志士として有名になった原田亀太郎もここで学んでいます。教諭所では有終館と同じ教育を行い、学問が優れると、士族に取り立てています。各地に寺子屋もでき、習字を中心に教えています。他に藩士による塾もあり、河井継之助の書いた日記「塵壷」に、進鴻渓の塾で、12歳になる農家の子供が「唐宋八大家文」を読んでいたことに感心し、松山藩の文化水準の高さに驚いています。

 方谷は有終館学頭時代から西洋の兵法を研究しており、嘉永5(1852)年に郡奉行になると、庄屋層から指導者を選んで帯刀を認め、猟師及び農民の身体強健な者を集め、8地域にそれぞれ大隊を作り、1200名の農兵隊を組織しました。全員による訓練は年1回、桔梗河原で行われ、それを見学した長州藩の久坂玄瑞は「我藩の銃陣はこれに及ばない」と感嘆したそうです。方谷の書いたこの隊列の図が「山田方谷全集」に載っています。また総門には数十門の大砲が並び、来藩者を驚かせていました。なお下級武士や農兵には鉄砲を貸し与えるなど、巨額の軍備費を支出しています。

 方谷は撫育方を通して釘・綿織物など松山の産物を集め、江戸の国産方で売ることによって大きな利益を得ていきました。江戸藩邸の経費もこれで賄うことにしました。輸送には松山から玉島までは高瀬舟で、兵庫港までは地元の船で、兵庫港から外洋船に積み替えて江戸に運びました。外洋船の運賃は2000両もかかりました。文久2(1862)年にアメリカからスクーネル型帆船(350トン、長さ33メートル)を7150両で購入し、快風丸と名づけて玉島から江戸への物資輸送に活用。時には北海道函館までも航行し、商取引に大いに利用しています。戦時には快風丸を軍船として活用するという考えを方谷はもっていたのです。

 方谷は以前から、防衛上重要な場所に武士を入植させることが大事、という熊沢蕃山の考えに共鳴していました。郡奉行になってから、松山領に四つの候補地を考えていましたが、実現したのは最重要地点の野山(現吉備中央町西南部)でした。

 野山は松山城の地続きで、東からの侵略に対して守るべき要害の地です。松山城下への防衛上の備えとして、安政4(1857)年、20人あまりの在宅武士を移住させました。宅地や住居などすべての経費を藩が賄い、藩士の給与も以前と同じだけ支給しています。中央に学問所が作られ、城下と同じ教育内容で学問ができ、武術を訓練して東方の守りを固め、希望すれば周囲の農地がもらえました。当初、在宅武士のなかには左遷されたと反感を持った人もいましたが、住んでみると城下よりも生活しやすく、やがて希望者も出て、30名以上が住み着きました。

 方谷自身も入植したいと藩に願い出て了承され、安政6年(1859)より長瀬に居住して、対岸の瑞山を開拓しています。そして藩の役を果たすために、月に3度、10 日ほど城下に来て、奥万田のお茶屋(通称水車)に泊まっていました。またここには河井継之助も泊まっています。

(文・児玉享さん)