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山田方谷を語る 十二 幕末の動乱

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ページID:0042939 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 嘉永6(1853)年のペリー来航以来、江戸幕府は激動の時代に突入していました。

 文久2(1862)年3月、藩主勝静は幕府の政策を決定する老中(5〜6人)に就任しました。これは異例の抜擢でした。4月には病の癒えた方谷が相談役として江戸に呼ばれました。この年は公武合体による政治を目指し、孝明天皇の妹和宮と将軍徳川家茂との結婚が実現しました。しかし、幕府はすでに外国との貿易に踏み切っているのに、孝明天皇は大の外国嫌いで攘夷を主張しており、政局は厳しさを増していきます。4月には薩摩の島津久光の圧力により幕政改革が行なわれ、参勤交代制の緩和が決まりました。方谷はそれに反対し、攘夷の実行や参勤交代制の復活など幕府の力の強化策をいろいろ進言しましたが、いずれも実行されませんでした。

 その後、京都では尊王攘夷運動が激しくなり、元治元(1864)年7月、長州藩は禁門の変を起こし、門を守る会津、薩摩の兵に退けられました。幕府は勅許を受けて各藩に長州討伐(第一次)を命じました。この時、老中を辞めていた勝静は山陽道の先陣を務めるため10月に松山に帰り、11月藩兵を率いて広島に向って出陣しました。松山藩の16門の大砲と鉄砲隊の行進について、方谷全集年譜には、「見る人驚く板倉の 大筒小筒を打ち並べ はれかいな」と沿道の人々が驚たことが載っています。祭に歌われる「五万石でも松山様は、御陣羽織が虎の皮」という歌詞は、その時の軍歌が残ったものと伝えられています。留守中の防衛は方谷に任され、農兵隊を藩境に配置して守備体制を固め、頼久寺境内に作戦本部を置いています。長州が降伏したので、翌年正月藩兵は帰藩し、方谷は農兵隊を解散しました。勝静は京都にいる将軍のもとで再び老中に就任し、方谷も時々相談に与あずかっていました。

 翌慶応2(1866)年4月、長州の第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら100余人が倉敷代官所を襲い、総社の宝福寺に泊まり、松山藩を狙う構えを示しました。方谷は藩の会議で直ちに出撃するよう決定し、自ら一隊を率いて野山(現吉備中央町西南部)まで出兵しています。立石らは浅尾陣屋を焼き討ちした後、長州に帰ったので、戦いにはなりませんでした。

 慶応3年、63歳の方谷は勝静から京都に呼び出されました。勝静は15代将軍となった徳川慶喜のもとで老中首座となり、将軍補佐として重要な任務についていました。一カ月半ほど相談に与った方谷は、幕府の時代は長くはないと察して、藩主に老中を辞めるように説得しました。しかし徳川幕府と運命を共にする意志の勝静は方谷の相談役を解き、松山の藩民を守る任務を任せ、別れに短刀を与えて帰国させました。

 慶応3年10月14日、慶喜は大政奉還の上表文を提出、15日受理されました。方谷はこの知らせを受け、江戸にいた養子の耕造に驚きの手紙を書いています。

 その後、戊辰戦争に入り、松山藩は朝敵とみなされ岡山藩が迫ったので、方谷の指導の下、藩をあげて恭順を申し出ました。美袋本陣で降伏の交渉中、岡山藩が示した降伏文書案に、勝静の行為を「大逆無道」としているのを見た方谷は、藩主には朝廷にそむく大逆の心はなく、人の道に反する無道な人ではない、これを認めることは義に反する。この文字を除かねば私は自刃すると言いました。松山藩の使者大石隼雄は号泣、三島中洲と横屋譲之助は死を賭けて嘆願したため、「軽挙暴動」の字に替えることを許され、18日すべてを岡山藩に差出し、藩士は城下を離れ謹慎しました。京都、大坂で勝静を守っていた熊田恰ら150余人の藩士は勝静の命で海路玉島に帰り、松山での謹慎を申し出、熊田は戦争に参加していないと弁明しましたが受け入れられず、首領の首が要求されたので、藩と部下を救い、玉島を戦火から守るため、柚木邸で切腹し、首は岡山藩に送られました。時に44 歳でした。熊田恰は玉島の羽黒神社と高梁の八重籬神社に祀られています。

(文・児玉享さん)