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山田方谷を語る 三 家業と学問に励む

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ページID:0042930 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 山田方谷の父は、遺言を丸川松隠に託し、遺産を三つに分け、一つは妻が弟の辰蔵と家業を継ぐ、一つは次男平人の養育費に、一つは方谷の学費にと決めていました。しかし病弱な弟が農業の傍ら、重労働の菜種油の製造や行商は無理で、やむなく親族会議によって、16歳の方谷が中井に帰り、家業を継ぐことになりました。


 父は次のような遺訓一二条を残しています。
一、 夜明けとともに起床し、その日の仕事を決め、済むと自分の修業を少しも怠らないこと。
一、 夜は十時頃就寝すること。学問修業と家の用向き以外で無益な長起きはしないこと。
一、 勤倹質素を守り、油断なく家を保ち、また米や金の出し入れの時に情け容赦のないやり方をしないこと。
一、 容姿は端正に、言葉はまごころをこめて、嘘を言わず、徳を積む行ないに励むこと。
一、 村の困窮した人や病人をねんごろに尋ねて親しく交わり、親しみ合って仲良くする心がけを忘れないこと。
 その他に、母への孝養や先祖への祭祀を怠らない。平人の教育に努める。ぜいたく・賭博・酒宴・遊興をしないことを箇条書きし、さらに、孔子の教えを宗とし、先賢の志に従い、学業の道に怠ることなく日夜励むことを強調しています。


 方谷は父の心に忠実に従って家業と学問に励み、誠実に近隣の人と交わったので、村の人から「安五郎さん、安五郎さん」と呼ばれて親しまれました。


 文政5(1822)年、17歳の方谷は新見藩士の娘、16歳の若原進と結婚して、共に日夜仕事に励んでいます。進は松隠塾の近くに住んでいた人で、二人は気心が知れていたと思われます。


 「山田方谷全集」年譜、文政6年の項で、『先生すこぶる家業に詳しく、日にはかりを操りて農民商人と交わる。後年一藩財利の権を握り、ずるい役人や商人のごまかしを受けざりしものは、この素養ありしによる』と山田準氏が付記しているように、この頃の苦労が後に実を結ぶことになったのです。


 文政8(1825)年、21歳の時、方谷の篤学が四方に広がり、藩主板倉勝職公から、「農商の身にて文学心がけよろしき旨を聞き、二人扶持をくだしおく。これより、おりおりは学問所に出頭し、なおこの上とも修業し、ご用に立つよう申しつける」との沙汰書をいただきました。有終館で学習できることは士族なみにされたということで、士族に復帰したいとの願いが強かった両親が生きていたらどれほど喜んだことでしょう。


 なお二人扶持は一日に玄米1升(年間約500キロ)が支給され、当時藩士が遊学に出る時の奨学金と同じでした。方谷の喜びはどのようであったでしょう。おめでたいことは続き、翌、文政9(1826)年に待望の長女瑳奇が誕生します。彼の喜びが目に見えるようではありませんか。暇を見つけては有終館で学習し、後に遊学して学問を深める道が開かれたのです。


 しかし、その後も当時の農民の苦労を常に感じていたことを示す文があります。天保元(1830)年冬に書かれた彼の随筆を要約すると、「自分が門の外に立っていると税を納める者がぞろぞろと前を通った。村民の苦労はひどいもので、一年中働き通して田畑を守り、収穫を上納するため、担いだり抱えたりして遠い役所に運ぶが、国は財政に窮し、大商人からの借金の利息に追われ、村民が血と汗で出した税を借金の利払いに当てねばならず、無縁の商人を富ますのみ」と嘆息しています。この心がのちの藩政改革の時、富商の利を抑え、藩が産業を育成し、財政を安定化させ、農民の税を軽くして生活を楽にする政策につながっていくのです。    (文・児玉享さん)