旧広兼家住宅
きゅうひろかねけじゅうたく
地図(広域中域詳細
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 広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治の享和、文化の頃(1801~1818)小泉銅山とローハ製造(ベンガラ)を営み巨大な富を築き、江戸時代末期に建てられた楼門づくりの城郭にまがうばかりの石垣は、当時の富豪を偲ばせている。
 二階建の主屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣、天広神社(あまひろじんじゃ)は文化7年(1810)の建築で、規模・構造とも雄大な城郭を思わせる構えである。離れは大正の建築でお茶室、化粧部屋、客間、風呂等を備えたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されていないとのことである。
 旧広兼家住宅の正面の尾根上に位置する天広神社は、広兼氏個人の神社として祀られていたものである。社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石灯籠が数基置かれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており衆楽園と呼ばれている。