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山田方谷を語る 七 財政改革に入る

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ページID:0042933 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 松山藩の領主は若い婿養子の板倉勝静、元締役兼吟味役は農民出身で学者の方谷ということは、藩士たちに反感と不安を感じさせたことは当然なことです。しかし、勝静は財政の健全化を行う強い意志で臨み、方谷への批判は一切許さず、彼の考え通りに実行させました。方谷自身は財政改革についての自分の考えを文章にまとめて報告し、藩の重臣たちと時間をかけて協議し、理解を得て断行しました。

 方谷は嘉永3(1850)年1月に松山に帰ると、直ちに藩の会計など財政に必要な資料を徹底的に調べ上げました。松山五万石の実収入は米一万九千三百石余りです。これから家臣の給与五千石余り、領民への渡し米千石余りを差し引くと、米一万三千石(金貨に換算すると約一万九千両余)でその中から藩庁経費三千両、大坂・京都の費用千両余り、江戸経費一万四千両を支出しています。これで収支はほぼ同一になりますが、借金が総額十万両(時価数百億円)あり、その利息だけでも八〜九千両あるので、これだけが赤字になります。これでは借金の利息支払いのために又借金するという状態で、参勤交代の道中で駕籠かきが「貧乏板倉」と陰口していたということです。

 藩主就任以来、江戸藩邸にいた勝静が6月、新藩主として松山入りをしました。領民は祝いとして米千俵を差し出しました。勝静は民のことを考えて辞退しましたが、このことは先例なのでと強く要望され、これを受け入れ、代わりに農村に蓄えさせて、不作の年に備えさせました。

 財政の健全化に向けての第一歩として、勝静は藩士全員に対して藩の厳しい財政状況を説明し、方谷が提案した倹約令を出しています。その内容は期限を定めて藩士の給与を減らし、衣服は絹を禁止して綿織物のみ、くしなどは木・竹に限り、足袋をはくのは10月節句から翌年の4月まで、飲食は一汁一菜、結髪・家政は人手を借りないなど厳しくぜいたくを戒め、さらに奉行・代官などへのもらい物はすべて役所に持ち出し、入札で希望者が買うこと、各村を見回って歩く役人へは酒一滴も出してはならないことが明記されています。

 この倹約令で藩士は給与の一割を減らされましたが、質素な生活が定着し、交際も万事簡略化されました。農村では役人への接待が不要になり助かりました。藩主自らも綿服、粗食で通し、好きな酒も一日3合までとし、肴は人手を借りないため塩辛で飲みました。

 方谷は自身の給与を一部返上し、山田家の家計一切を近所の塩田仁兵衛に任せています。後年発見された、当時の家計簿の裏に書かれた方谷の詩に、『藩の財政立てなおしに苦心すること10年、その間少しも我が身のためにしなかった。貯蔵の藩米は倉の中に積みあげられており、財政はゆとりあるものとなった。それに引きかえ、わが家八人の生計はあべこべに窮屈になってきたのは皮肉である。このたび、荒れ地を開墾して、やっと小百姓の仲間入りをすることとなった』(宮原信訳)とあって、元締役の方谷が自分を削って改革を実行したことがわかります。

 方谷は10月、質素な綿服で大坂に出向き、債権者の商人たちに集まってもらい、藩の帳簿を示して実状を正直に話しました。五万石ではあるが実収は二万石しかないが、財政改革によって、返済に必要な財源の確保が可能であり、借りた金は将来誠意をもって返すから、返済をしばらく待って、10年、50年の年賦にしてもらいたいと要望しました。厳しい反対もありましたが、方谷のうそのない誠実な説明に好意がもたれ、了承されました。今後は富商の加島屋からだけ借りて、他からは借りないことにしました。

 この後、各債権者と個別に会い、借財の内容と返済方法を取り決めました。大坂の蔵屋敷は廃止して年末に元締が大坂に行き、その年の借財利子を払う約束をしています。この蔵屋敷の廃止により、年間一千両の経費節約になり、今後は藩が米の相場を見て高い時に売ることができ、大きな利益をあげることになります。

(文・児玉享さん)