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山田方谷を語る 八 財政の健全化

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ページID:0042935 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 方谷は上下節約と借金返済計画を実行しながら藩札問題に着手しました。

 藩札とは藩が幕府の許可を得て発行する紙幣で、領域内の売買に使用され、藩外に出るときは貨幣と交換できるものです。発行する時に藩は兌換のための準備金の用意が必要です。松山藩では延享元(1744)年、札座を置き一匁札を発行し、寛政9(1797)年に五匁札を発行しています。しかし天保年中(1830〜43)に二度の大火災が起きて、武家屋敷も多く焼失、その再建資金を得るためか、五匁札を大量に発行したため値打ちが下がり、額面での通用が難しくなり、偽札も出回ったのです。なお当時の金額を現在の価値に換算することは非常に困難ですが、あえて言及すると、「山田方谷全集第二冊」に『10万両は万貫匁』と記載されていて、万貫匁は一万匁のことですから、仮に一両を今の10万円とすると、一匁は千円と思われます。

 額面通りに使われない藩札では価値がないと考えた方谷は、信用を取り戻すため、嘉永3〜5(1850〜52)年、天保に作られた過半数の五匁札を貨幣に両替することを藩民に告知し、発行時の準備金を全部使い、足りなくなると借金して481貫110匁(約5億円)の藩札を偽札も含めて買い取り、回収を断行しました。嘉永5年9月5日、朝8時から午後4時まで、回収された藩札の焼却を、元締の方谷をはじめ奉行役・吟味役など関係役人が総出動で実施しました。未使用や、傷みの激しい藩札も合わせて、総額711貫300匁を一枚ずつ確認しながら焼きました。高梁川の近似側の河原で焼却が行われましたが、見物人は対岸の河原にも大勢が朝早くから押し寄せ、祭り見物のような大変な賑わいだったとのことです。藩札の焼却は他に例のないことでした。

 その後、確実な準備金のもとに永銭(永札)と呼ばれる新紙幣を発行しました。文は匁と同じですが、この永銭は3種類あって、百文札は10枚で金一両、十文札は100枚で金一両、五文札は200枚で金一両と交換することが札の裏に明記されていました。このように方谷は藩札の運用に、財務にそそぐ力の大半を使って取り組みましたので、藩札の信用は回復し、幕末までほぼ額面通りに流通しました。

 嘉永5年、撫育方という役所を新設して収納米以外の一切の産物を買い取り、大坂、江戸など各地に送って販売させ、収益を役所で管理させました。撫育方で行われる産業振興策は藩財政を充実させるだけではなく、一般の人々の生活を楽にすることがねらいです。

 藩札の信用が定着したので、藩は領内から産物を藩札で購入し、他領で売るときは金貨や銀貨などを受け取ることができ、撫育方に多くのお金が集まり、これを元手に新しい産業を興すことが出来るようになりました。また、領内の農家の次、三男に永銭札を資金として貸し付け、荒廃地を農地に開拓させました。新しい田からは3年間税を取らなかったとのことです。山に杉・ヒノキ・竹・漆を植えさせ、米作以外の土地を利用し、ハゼ・茶・みかんなどを奨励しました。特に津川の茶は上等な品で、「霜の花」と呼ばれて高く売れました。筑前より購入して下倉・作原に植えさせたハゼから蝋が作られ、利益を生みました。各地に葉タバコも増殖させています。方谷の詩に「タバコを刻む音がさっさっと聞こえる 城下千軒の半ばがそれを生業としている」とあり、武士の家でも家計の助けに刻む人がいました。刻みタバコを撫育方が買い取り、それを扱う問屋が本町・下町に数軒並んで繁盛しました。問屋はそれを玉島に送り、江戸・大坂に送り出していました。

 また、備北の三室、吉田の鉄山を開堀して砂鉄を採取し、高瀬舟で運び、近似に鍛冶屋町を開き、出雲地方や各地より職人を集めて家を提供しました。数十軒の鍛冶屋で製造される、釘をはじめ鋤・鍬などの農具は江戸で良く売れ、その頃は鍛冶する音が夜中まで続き、対岸の本町、下町の人はやかましくて眠れなかったとぐちを言っていたということです。

(文・児玉享さん)