ページの先頭です。 本文へ

山田方谷を語る 九 民政刷新

現在地 トップページ > 組織でさがす > 市長直轄 > 秘書企画課 > 山田方谷を語る 九 民政刷新

ページID:0042936 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 山田方谷は嘉永5(1852)年から郡奉行も兼ねるようになりました。彼は財政と政治は車の両輪のようなもので、財政と同時に町村の政治や治安の維持をやらねばならないと考え、要望したことです。初めに賄賂を禁止し、賭博を厳禁しています。また、総門前に目安箱を置いて広く提案を求め、不正は投書(名前明記)で訴えられました。賄賂の機会をなくすため、役人が商人・庄屋などと個人的に会うことを禁じ、まず役職にある者が行ないを正して人々を指導しました。

 当時、松山藩の周辺は旗本領や幕府領が入り組み、他所から来て悪事を働く者が多かったようで、藩民は苦しんできました。方谷は強力な盗賊方を置き見廻りを厳しくし、後には農兵にも協力させたので領内は良く治まりました。また、ばくちをする者が多かったのでこれを厳禁し、見つけると、眉と片鬢(片方の耳の前のひげ)を剃り落としたり、寄場に収容してベンガラ染めの赤い上着を着せて仕事をさせ、厚生すると家に戻しましたから、賭博をする人はいなくなりました。おかげで人情はよくなり、夏の夜など雨戸を閉めなくてもよくなりました。

 また、領内の貧困者には資金を貸し与えて立ち直りを計り、荒れ地・開墾地には補助金を出して開かせ、当分税を免除しました。領内の貧窮人を調べさせ、最も貧しく、生活が難しい者には米・金を与えて助け、庄屋を三代続け、貧しくなった者には米70俵を無利子で貸し与え、10年で還納させました。村の役人の不正を正しくしたので、藩内は大いに治まりました。領民の生活は安定し、人口は増加しました。方谷が今でも多くの人に慕われているのはここにあります。

 安政2(1855)年には江戸に大地震があり、江戸藩邸は被害甚大でした。そのような中でも方谷の要請に藩主は応え、藩民からは増税をせず、大坂商人から借りてまかないました。藩財政が改善されたことをもとに、方谷の上申した藩民への撫育案を藩主は実行し、藩士に対しては、嘉永3(1850)年の倹約令で、給与の1割をカットしていたのを、嘉永5(1852)年に5分戻していたので、安政2年には残りの5分を戻しました。農民には税を減らし、困窮した村には援助金を与え、町民には金銭の融資をして商売を円滑にさせたので、藩民は上下ともに生活が安定して、藩の財政は豊かになりました。

 安政3(1856)年、租米貯蓄法を制定し、領内の各村に租米の一部を保管する郷倉を置き、32の村には300俵ずつ、豊かな1か村には400俵計1万俵を郷倉に貯蓄させて凶作に備えさせました。次の年には郷倉にある古米を売り、新米を貯蓄しました。この郷倉はのち40数か村に増えました。郷倉は現在、巨瀬町六名、家親の三村家に一か所だけ残り、市の重要文化財に指定されています。

 また、交通路や水利も整備されました。人馬往来の便を図り、松山街道の松山から種井に至る2里(約8キロ)余の道に松を植えて木陰を提供しています。

 ここで方谷の家庭・家族についてふれておきます。方谷の弟、平人は大坂、京都で修業し、紺屋川のほとりで医者を開業していましたが、病弱でまもなく亡くなりました。方谷は彼の子供の耕造を養子にして跡継ぎにしています。

 長女瑳奇が十一歳で病没した後に神経を病んで別居していた妻の進と方谷は離婚し、荒木松野と一緒になりました。安政元年に子供の小雪が生まれますと、方谷は殿の御用で江戸に出ました。留守中の世話を松野の兄の主計に頼みましたが、彼女は他の藩士のもとに嫁ぎ、子供を残して去りました。安政3年、方谷は吉井緑を迎えていますが、暗殺のうわさがあるほど不安な日々のため、小雪は上市の矢吹久次郎に預けています。(小雪は後にこの家の長男と結婚しますが早死にしています)方谷は職を退いて長瀬に居を移してから、度々小雪会いたさに上市に通っていました。

(文・児玉享さん)