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大政奉還から150年

ページID:0021794 印刷用ページを表示する 掲載日:2017年6月23日更新

 平成29年(2017)は、武家政権が終わりを告げ、新しい国づくりへの転換になった慶応3年(1867)の「大政奉還」から150年の節目を迎えます。

 高梁市(備中松山)ゆかりの人物も、大政奉還に大いに関わっています。

「高梁市」と「大政奉還」の関わり

 幕末の備中松山藩主で、時の将軍徳川慶喜の老中首座であった板倉勝静(かつきよ)は、「大政奉還」の決定に深く関与し、勝静の政治顧問を務めた山田方谷が「大政奉還」の上奏文草案を作成したとも言われています。



「高梁市」の幕末維新ゆかりの人物

板倉勝静(いたくらかつきよ)

 備中松山藩主。徳川慶喜が将軍に就任すると老中首座に任ぜられ、慶喜を補佐。幕府の終焉を見届けました。

山田方谷(やまだほうこく)

 備中松山藩士。儒学者。藩主板倉勝静により藩の財政責任者に登用され、藩政改革に着手。7年間で10万両の借財を返済し、10万両を蓄財するという成果に導きました。

三島中洲(みしまちゅうしゅう)

 備中松山藩士。漢学者。山田方谷の家塾「牛麓舎」で学び、嘉永元年(1843)に19歳で牛麓舎の塾長となりました。その後、津藩(三重県)の斎藤拙堂のもとに遊学しました。30歳のときに、藩校有終館の学頭となりました。39歳の元治4年(1868)に鳥羽伏見の変により板倉勝静は朝敵として追討されましたが、山田方谷・川田甕江らとともに朝廷への助命・板倉家の再興を運動し、明治2年(1869)に実現した。

 明治5年、朝廷の召しだしに応じて上京し、法官となり判事を務めました。そのころから、西洋の学問が急速に流行したが、人の心を鍛えるには東洋の道徳教育こそが重要であるという堅い信念に基づき、明治10年(1877)に東京の麹町に漢学塾「二松学舎」(現・二松学舎大学)を創設。

 以後、東京高等師範学校、東京帝国大学教授、東宮侍講を歴任した。

熊田恰(くまたあたか)

 備中松山藩士。慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いの時、藩主板倉勝静の親衛隊長として大坂につめて活躍しました。その後、勝静は将軍徳川慶喜に従って、江戸に東下しましたが、恰は勝静より帰藩を命じられ、藩兵150余名を率いて、海路玉島(現・倉敷市玉島)に到着した。恰が帰るのを知った岡山藩兵は転じて玉島に向かい、これを囲みました。恰は柚木邸(現・西爽邸)にて自刃することで、松山藩兵150余名の命とともに、玉島を戦火から救いました。

 墓は高梁市和田町の道源寺にあり、助命された隊士たちは冥福を祈り墓前には「苟日新」と隊士一同の名を刻んだ大手水鉢と、庭前の石灯籠に「大阪詰合、159人中、明治元年12月」と刻み、感謝し寄進しています。

谷三兄弟(たにさんきょうだい)

 谷三十郎(長男)、万太郎(次男)、昌武の三兄弟で新撰組隊士。「新撰組の三兄弟」とも言われてました。三十郎と万太郎は、文久3年(1863)4月に新撰組に入隊。昌武は、7月以降に入隊し、新撰組局長の近藤勇の養子となり、「近藤周平」を名乗りました。

 三十郎は、七番組局長を務めました。直心流剣術の師範で、種田流槍術も堪能だったと言われています。

 万太郎は、元治元年(1864)6月5日の池田屋襲撃事件では、土方歳三の三番隊に属し、二階から逃げてくる敵を田楽刺しにして、奮闘しすばらしい手柄を立てたと言われています。

 昌武は、近藤勇が池田屋襲撃事件の成功を郷里に宛てた手紙の末尾に「先日板倉周防守殿家来より養子申し入れ候。(中略)名は周平と申し置き候。」と記しているように、近藤勇の養子となっていることがわかります。池田屋襲撃事件では、近藤勇とともに切り込んでいます。

原田亀太郎(はらだかめたろう)

 平素から尊皇攘夷の説を主張していたが、米船が浦賀に来航し和親貿易を迫ったとき(1863)、幕府の処置に憤慨し、文久3年(1863)8月、元侍従中山忠光の大和挙兵(天誅組の乱)に参戦し各地を転戦したが、元治元年(1864)7月に京都の獄舎で同囚32人とともに処罰された。



「高梁市」の幕末維新の舞台

備中松山城

 板倉氏の居城。全国の山城で、唯一現存する天守は重要文化財に指定。近年では、雲海に浮かぶ「天空の山城」という幻想的な景観で全国的に脚光を浴びています。

方谷園

  山田方谷をはじめとする山田家の墓所。