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地名をあるく 97.赤羽根

ページID:0013934 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 「赤羽根」は、井谷川に沿った阿部山(三一六メートル)の山塊が南に向かって突き出したところの山すそに当たる南向きの斜面で、阿部の平野や成羽川を見下ろす位置にあります。


 現在「赤羽根」に、たいようの丘ホスピタルなどの施設が建っていますが、昔は大変寂しい静かな場所でした。旧成羽往来が、北の原田、松原方面と別れる場所で、その分岐点に観音堂が建っていて、唯一の「休み堂」でした。

 今でもそこには、文政時代(一八一八〜一八三〇)に江戸大相撲の力士だった、金剛力熊ヶ嶽の墓碑や、延命地蔵の石仏が昔を偲しのばせてくれています。金剛力熊ヶ嶽の碑には、「八田部山門弟熊ヶ嶽木曽右衛門」と左側に書かれ、右に文政七甲申(一八二四)歳閏八月三日卒年三十五」とあって、江戸大相撲の星取表にも出ていた力士で、三十五の若さで亡くなっています。


 その横には、延命地蔵の立派な石仏が立っています。「天明二壬寅(一七八二)三月日 乳子観音札所道井谷念仏講」と書かれ、当時は飢饉などがあって不景気な時代で、阿部深山の「観音信仰」の霊場が人々を集めていたのでしょう。信者の道案内を兼ねた地蔵石仏なのです。


 このほか、付近には天正六年(一五七八)播州上月城の戦いで毛利に降伏して、松山城へ護送される途中に阿井の渡しで暗殺された尼子の武将山中鹿助幸盛の胴墓や、鹿介の位牌を祀っている曹洞宗観泉寺があります。

 「赤羽根」一帯斜面には、多くの古墳が発見されていて、古代の墳墓地帯になっています。現在、倉敷考古館に保存されている箱式石棺や勾玉などは、この付近から出土したものです。


 昭和五十五年七月に六号墳、七号墳、八号墳が発掘され、いずれも棺の側石や天井石を赤土の粘土で目張りを施していて、棺の中には川原石を敷き詰め、石枕をして寝かされた人骨(「伸展葬」)や鉄剣が出土しています。人骨の首から上には赤色顔料(ベンガラ)の朱しゅが塗られ、いずれも保存状態が良いもので、赤褐色の粘土層に埋葬され、密封されていたためだろうといわれ、どの墳墓も五世紀初めから六世紀頃の群集墳として話題になりました。


 最近では平成十四年(二〇〇二)に、宅地造成中に発見され、発掘調査された「赤羽根イナリ古墳」(市指定文化財)があります。これは直径十四メートルの円墳で、墳丘には周りに石列が発見され、「葺石」をめぐらした、その円の中に五基の箱式石棺が見つかり、このうちの二基の棺からも人骨が出土しました。


 このような円墳の墳丘の中に五棺が埋葬されたものは、大変珍しいといわれ、しかも時代が五世紀初めから六世紀の古墳で、大変古い時代のものなのです。このように「赤羽根」に見られる赤褐色で粘土質の土壌(保水性が大きく、湿ると強い粘性がある土)は、当時墳墓として人骨を保存するには、最も適した好条件の場所だったのでしょう。


 「赤羽根」という地名は、赤褐色で粘土質の土壌を意味する「埴」から転じた地名で、「赤埴」とか「赤羽」、「赤羽根」と同じ意味の地名で、珍しい自然地名なのです。

  (文・松前俊洋さん)