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地名をあるく 23.新町

ページID:0000634 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 新町」は今の高梁市新町。北は小高下谷川から南は伊賀谷川までの町で、西側の本町通りや東側の片原町・石火矢町などと平行して北から南へと走る町筋で、近世の「竪町型城下町」の特色をそのまま残している町通りの一つなのです。
 江戸期の松山城下時代は、実質的な大手機能をもっていた「惣門」に最も近い町屋地区として本町と並んで重要視されていました。「新町本町元和二年(一六一六)に出来下町鍜冶町元和四年に出来…」(「松山御城主歴代記」・「小堀氏の条」=市図書館」)とあり、江戸初期に小堀作助(遠州)によって最初に取り立てられて出来た町人町だったのです。
 「前掲書」に「新町本町鍜冶町紺屋町共に是迄小堀様御代より御除地に仰付られ候…」とあり、また、その後の水谷氏の時代(寛永一九年~元禄六年=一六四二~九三)になっても「御除地に被仰付候…」と記録され、その後「新町」は本町・下町・鍜冶町・南町などとともに「五丁の町」の一つとして「往古より無高之地子御免除之地にて…一切町方へ掛り候之事御座無候」(「松山六ヶ町差出帳」=市図書館)とあるように、「新町」は地子 (税など)免除の町として保護されてきたのです。
 『元禄七年(一六九四)正月改 御家内之記=「水谷史」』によると家数九六軒とあり、 延享元年(一七四四)には、世帯数一五六軒 男二六八人 女二三九人 本家五六軒 借家一〇〇軒(「松山六ヶ町差出帳」)と記録されています。これより前の石川総慶時代(一七一一~四四)の家数八九(松山城下絵図○写市図書館)に比べると戸数が増加しているのです。延享元年頃「新町」の役人の町年寄は亀屋十郎右衛門で役料米五俵のほか塩改役として塩口餞(塩一俵につき六厘二毛余)を取り、そして目代は役料五俵で吉兵衛となっていて町方屋敷から口銭 (人数割で取る税)を徴収していました(「増補版高梁市史」)。また、町には郷宿(百姓が城下町に出向いたとき御用全般にわたり手助けする宿)が一二軒あって関係の村から毎年米一俵を世話料として取っていました。
 「新町」は天保三年(一八三二)の大火により全焼していますが、復興した嘉永二・三年(一八四八・四九)頃から安政初年(一八五四)頃には、屈指の商家として大年寄難波平五郎(酒造)、目代米山健次郎、口入灰屋紀三郎、口入屋福島屋定八、宿屋の重屋、成羽屋、そのほか下駄屋、疊屋、 肴屋などの商人がいた(「昔夢一班」)ことが書かれています。
 「新町」は片原丁などの家中屋敷町と隣接していて「家中と町家は垣一と重隔つるも交際は更に無之。夫故家中の小供と町屋の小供とは言語も多く違へり。家中は伊勢の国より引越したるもの多く自然に其言葉伝りたるも、町屋は備中土着にて趣の異るも尤の事なり。維新後、小学校へ混淆登校することと成りて自然と一致したるやに覚ふ」(「昔夢一班」)とあって城下町時代の様子が伺えるのです。
 現在の「新町」は近世城下町プランをそのまま留める「竪町」の新町通りと、西の本町を結ぶ菊屋小路(見通しを悪くして折れ曲っている)など三本の小路(横町)、そして東の片原町へ通じる一本の小路が残っています。
 「新町」の「新」の付く地名は各地に見られ、意味は「古」「元」などに対して「新しい」という意味なのですが、高梁の「新町」は、本町とともに松山城下で「最初に出来た町」、「新なり」という意味から付けられた町名で古くは「あら(新)まち」といわれたこともあったのです。
(文・松前俊洋さん)