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地名をあるく 32.佐々木

ページID:0007944 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「佐々木」は、成羽町佐々木、領家川が成羽川に合流し湾曲して流れて、河成段丘が細長く続く場所にあります。

 鵠ノ森山(四七二m)の北麓の国道三一三号に沿って集落が点在し、耕地も狭くわずかばかりの畑と水田が分布しています。地域の人々は古くから狭い耕地や土地を守り利用してきました。今でもその努力の跡がしのばれる猪垣(しし囲い、獣垣)が一〇〇〜一二〇mの等高線に沿って約六〇〇〜七〇〇mにわたり残されています。石垣の高さ一・五〜二m、幅〇・五〜一m、たくさんの山石を積み上げ、山の斜面から駆け降りた猪が石垣にぶつかるという、すなわち「猪突猛進」の特技(?)なのか、山から出て来ても石垣は越せないという泣きどころに通じるわけなのです。明治、大正、昭和の時代には地域の人々が労力を出し合って補修してきたもので、これだけ立派な猪垣が残っている地域は珍しく、貴重な文化遺産なのです。

 承久の乱(承久三年=1221)のとき、佐々木四郎信綱が幕府方の京都攻撃に参戦し、宇治川の戦いで先陣を遂げ功あったので、幕府に恩賞として、備中のこの地を与えられて城を築いた(「備中府志」・「備中集成志」・「川上郡誌」など)といわれています。今でも佐々木の上の道路脇に信綱の墓と伝えられる石の碑がありますが、定かではありません。当時の城は鵠ノ森山(高盛山)城だったと伝えられ、元弘年中(一三三一〜三六)には蓮池和泉九郎が城主だったので蓮池の城ともいわれた(「備中集成志」)ようです。そして天正年中(一五七三〜九二)には三村方の有安数馬が毛利と戦って落城したということも伝えられています。

 江戸時代「正保郷帳」(正保二〜三年=一六四五〜六)には「佐々木村」高一四六石余り、枝村に紫藤 (志藤)村・吉木村・用瀬村が書かれています。元和三年(一六一七)には成羽藩領、寛永一九年(一六四二)幕府領となり、万治元年(一六五八)旗本山崎(のち成羽藩)領となりました。「天保郷帳」では、村高一九八石余と記録されています。

 慶応元年(一八六五)〜明治四年(一八七一)頃の「旧高旧領取調帳」では二一三石余りとなっていて村高が増加しています。明治二二年(一八八九)には枝村だった志藤・用瀬(富家村)や吉木(手荘村)が別れ、佐々木村大字本村は下原村と合併して東成羽村大字佐々木となりました。後、明治三四年(一九〇一)から成羽町の大字となっています。

 今の「佐々木」には高瀬舟の船頭集落の面影はありませんが、点々と幕末から明治時代に高瀬舟に乗って船稼ぎをしていたといわれる家があって、船頭集落だった名残をほうふつさせる地域なのです。この地域の氏神は、八千戈神社で多くの矛を持つ神、すなわち武威の神名を持つ大国主命(大己貴神)や、かまどの神奥津彦命を祀る神社なのです。

 また、佐々木の下には大きな自然石に「南無妙法蓮華経」と書かれ、法華経を写し地に埋めたという明治六年(一八七三)建立の一字一石塔(写経塔)が道の脇に立っています。

 「佐々木」という地名の由来には諸説があってよく分かりませんが、(1)には北条氏に従って宇治川の戦いで殊勲のあった鎌倉時代の武士・佐々木信綱が備中に加増地をもらったことから「佐々木」と名付けた(2)には、地形上から「洲崎」が転化したもの(「成羽町史」「備中府志」)(3)には、地形の特色からきた「狭狭 (狭い・小さい意)城」から転化したもの(4)「細木」の意味を表す地名(5)は、「笹木」と同じ地名で小高いところを意味する地名(6)には、川の瀬を表わす「ざさ」からきた地名だという説など多くの説が考えられて、地名の難しさを感じるのです。
(文・松前俊洋さん)