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地名をあるく 33.片岡

ページID:0007946 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 巨瀬町に「片岡」という字地名があります。高梁川の支流、有漢川に沿って国道三一三号を北上すると巨瀬町塩坪で県道高梁旭線に分かれる場所、すなわち有漢町への入口に差し掛る付近に位置していて、「片岡」のほか塩坪、 安元、陰地などの集落があります。昔には片岡村から多和山峠へと登り、中津井(現・真庭市)へと向かう落合往来が北上していて、通の難路といわれていた「峠山越え」への登り口でした。今でも「片岡」の長尾鼻から多和山峠への草生した古い道が残っています。特に、片岡村の塩坪は交通の分岐点として栄えていた市場集落だったのです。

 中世には、巨勢荘という荘園で京都仁和寺門跡領となっていた時代もありました。戦国時代には古瀬と表記しています(「備中兵乱記」)。毛利の支配を受け、江戸時代の慶長五年(一六〇〇)から幕府領となって小堀氏の支配となり、元和三年(一六一七)から松山藩池田氏・水谷氏の支配となり、元禄六年(一六九三)には再び幕府領となりました。同八年(一六九五)からは安藤氏・石川氏・板倉氏が支配した松山藩領となって明治を迎えています。江戸時代初めの「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四五〜四六)には古瀬片岡村、高二七四石余と記しています。

 「備中集成志」(宝暦三年=一七五三)には「水谷伊勢守高二七一石余…」と書き、「備中誌」(嘉永六年頃=一八五三)には、片岡村・東西一里二五町・南北二〇町高八六四石九斗余枝村に山組、安元、陰地をあげています。そして、塩坪の町の長さを二町一三間、家数二四軒と記録し、片岡村の家数一一〇軒、人数四九三人と記していて、幕末のこの地域の様子が細やかに書かれています。

 巨瀬町祇園寺の再建棟札(明和四年=一七六四)の裏に片岡村庄屋岡崎理兵衛義季の名が記録され、また「備中村鑑」(万延元年頃=一八六〇)には石高八六四石余りをあげ、庄屋前島茂十郎としています。

 塩坪には火鋒神社が祭られていて、この神社にまつわる話が伝わっています。それは、文化一二年(一八一五)二月に塩坪で大火があって町の大半が焼けました。その後人々は「ミサキ様のたたり」に違いないと言って、二度と火難の起こらないことを願って火鋒神社をまつって拝みました。今でも旧暦二月五日にはお祭りをし、「この日には風呂をたかない」とか「家の壁を厚くして、家と家の間には溝をつくる」などの言い伝えが残っていて、地域の人々には「火の用心」の意識が強く残っているのです。

 陰地から吉備中央町へ上がる午王渓に沿った標高三〇〇〜四〇〇メートルの花崗岩の山上には、中世の砦・粧田山(少田山)城跡があります。崩れたのか山上には砦の面影もありませんが、言い伝えによると源義経が西海に赴く時に、片岡八郎弘常が二〇〇騎余りを従えて屋島の戦い、壇の浦の戦いなどで戦功をあげ、義経より感状を賜り、巨瀬庄の地頭に補せられ、陰地東に屋敷を構えて粧田城を築いたといわれ、その後子孫は三村に属していたが、毛利の手に落ちた(「増補版高梁市史」)といわれています。

 また、貞観六年(八六四)創立といわれる松山城五社八幡宮の一つ、塩坪の八幡神社があります。「吉備津神社文書」(「岡山県古文書集」)の中の「上房郡祭礼日切注文」に「八幡宮御祭礼八月二六日神主三明」と寛永(一六二四〜四四)頃の記録が残されています。

 「片岡」という地名の由来については、はっきりしないところもありますが、「片方の」「片寄った」という意味から「岡の一方が長く傾斜した丘」を表す地名だという説、二つには有漢には人名からきた地名が多いことから、「片岡」も例にもれず、地頭として粧田城を築き、この地を支配した片岡氏の名が地名として残ったという説があります。果たしてどうなのでしょうか。
(文・松前俊洋さん)