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地名をあるく 81.松原町西野々

ページID:0008062 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年4月1日更新

 「西野々」という地名は、松原町松岡にある地名で、江戸時代から明治八年(1875)まであった「西野々村」という村名でありました。今でも地域の人々は「西野々」の地名を使って呼んでいます。明治八年には、隣にあった「割出村」と合併して、「松岡村」になっています。

 東には、春木(拙稿「地名さんぽ」=「春木」参照)や大津寄(同「地名をあるく」= 大津寄」参照)、西には、宇治町宇治や成羽町羽山が、南には、落合町福地(「地名さんぽ」=「福地」参照)が、そして北には、陣山(五九八・七メートル)がそびえています。松岡付近は、老年期の吉備高原面にあって、標高四〇〇メートル~五五〇メートルぐらいの小起伏の高原上に村が開け集落が点在しています。くぼには水田が開け、丘の部分には山砂利層(礫層)が分布して赤土が多く、畑作に利用されています。付近には「迫」とか「ソネ」「野呂」などの地名が見られ、吉備高原の地形の特徴が分かるのです。このような高原の地形を野呂地形と呼んでいます。

 北の陣山のすその県道沿いには、市内で最古の旧石器群《サヌカイト(安山岩)製の石槍(やり)・スクレーバー(石の側ふちや端に刃を付けた石器)》と縄文時代早期(一〇〇〇〇~六〇〇〇年前)の遺物(押型文土器や羽縄文土器など)が出土していて注目されています。

 「成羽八幡神社旧記」(万治二年=一六五九)大元八幡宮司「渡辺家文書」(「成羽町史」)に「西野々村」は「荒巻きと云道具を取て還りければ、荒巻八幡と奉り…」とあり、戦国期の成羽庄六カ村の一つであったといわれています。毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)から幕府領となり、元和三年(一六一七)には松山藩領、元禄六年(一六九三)には再び幕府領、同八年には松山藩領と支配が移り変わっています。

 「備中誌」によると「西野々村」石高六七八石余りとあって「天保郷帳」(天保五年= 一八三四)でも六七八石余りになっています。嘉永六年頃(一八五三頃)の記録によると家数五八軒、人数一八四人で「西野々村」東西七町、南北一二町だったと記録しています。また「備中村鑑」(万延元年頃= 一八六〇頃)によると「板倉周防守様 御城下松山」として「西野々村大庄屋東財次郎 六七八石余り、割出村庄屋藤井恵佐太 六一五石余り」としています。庄屋の東財次郎は割出村の庄屋を兼帯していたのです。

 「西野々」と「割出」の産土神である八幡神社があります。大永三年(一五二三)成羽鶴首城主三村家親が建立したといわれる神社で、かつては荒巻八幡宮といわれていました。(渡辺文書「成羽八幡旧記」)本殿は唐破風・照り屋根で斗梹もすばらしい本殿があります)割出の野呂には、宝暦二年(一八五二)創立といわれる磐裂神社があります。この神社は、もともと三代妙見宮だったものを明治五年に岩の信仰に依る磐裂神社に改称されたものです。寺院では中筋に天台宗神護寺があります。本尊は不動明王で江戸初期の創立といわれています。また、中世、尼子との合戦のとき築かれたと伝えられる「馬之城」があり、山を掘りきった土塁のあとも残っていて、中世の砦跡なのか、それとも中世豪族屋敷跡(土居)なのか興味をそそる史跡なのです。北の陣山は、天文元年(一五三二)尼子晴久が松山城を攻撃したときに陣が置かれていたといわれ、明治維新には、松山藩の洋式軍事教練の場所にもなっていました。

 「西野々」という地名は「西にある野原」という意味だと「日本地名大辞典」(角川書店)に書いています。確かに山に対する「野原」の意味か、または「田畑」の意味を表す「野々」かもしれません。もう一つは、地形の「野呂」が変化して「野々」という地名になったとも考えられるのです。
(文・松前俊洋さん)