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地名をあるく 93.御根小屋

ページID:0012176 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 今回取り上げる「御根小屋」は高梁の「地名」としては、どうかとも考えますが、現在、県立高梁高等学校のある、江戸時代城下の政庁(御殿)があった場所として「地名」に取り上げることにしました。

 「御根小屋」は、近世松山藩の城下町が発展する起点となった場所で、中世から城(砦)のあった臥牛山のふもとに、城主の居館が置かれていましたが、「備中兵乱」(天正二年〜三年)の時に焼失しています(「中国兵乱記」)。その後、江戸時代になって小堀政一( 遠州)が慶長一〇年(一六〇五)〜一五年(一六一〇)にかけて、政務を司る場所として、戦火で焼失していた陣屋の屋敷(居館)を新たに造営したといわれ、「岸本家文書」(「岡山県史」)に「御下屋敷御用のため請取もうす枌(そぎ板)のこと…」などとあって、当時は「下屋敷」ともいわれていたことが分かります。その後、関東下館(現・筑西市)から入封して来た水谷氏二代勝宗が、屋敷を大規模に改築造営して(「高梁市史増補版」)、根小屋(御根小屋)といわれるようになったのですが、当時の建物については、よく分かっていません。


 この御殿の姿が明らかになるのは、城主石川総慶の頃から板倉氏への頃(正徳元年〜延享元年)で、「松山御絵図ならびに山之城根小屋等不残写控」とあって、「高梁市史増補版」に様子が描かれています。


 「根小屋」(御根小屋)という名称は、もともと関東地方や中部地方で、豪族の屋形の「小屋」の意味で使われていたものです
が、戦国時代になって関東地方中心に、地方の土豪(中世における在地に勢力を持つ有力者)の居館(館)のふもとにつくられた集落地名で、各地の土豪を中心に集落ができて、その集落が「根小屋」という地名になったのです。中世の土豪は、軍事上の目的から城(砦)のふもとに、館を構築して、周りに家人(従者)を住まわせて集落をつくっていたのです。関東地方や中部地方では、今でも「根小屋」と付く地名が多いのです。


 高梁の「根小屋」は、「御」を付けて呼んでいますが、関東風の地名「根小屋」が使われたのも、水谷氏が下館から転入の際に伝えたのが、近世まで用いられたと考えられるのです。


 松山藩の城下町形成の初期の段階から、起点となった場所が政庁(居館)のあった「御根小屋」で、ここから南へと集落が次第に広がって、近世の城下町ができたと考えられるのです。


 水谷氏の出た、下館も平安時代にできた古い町で、上館・中館・下館という豪勇の居館を中心に発展した集落がもととなってできたところで、その地名が残っているのです。
  (文・松前俊洋さん)