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吹屋の銅山笹畝坑道

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ページID:0041398 印刷用ページを表示する 掲載日:2021年6月21日更新

吹屋の銅山笹畝坑道(JPG/10.2KB)
 吹屋の銅山笹畝坑道

 

 

 

 

 

 江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元し、坑内を見学できるようにしたものです。冒険心をそそる神秘的な坑内は年中15度前後と、天然のエアコンが効いています。  
 吉岡(吹屋)銅山は、大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載があり、吹屋の銅山としての記録は戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にありましたが、大部分の間は天領幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいました。 
 明治以降三菱金属(株)の経営となり、周りの小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い精錬等の作業を機械化し、日本で初めて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなりました。 
 この鉱山は笹畝(ささうね)と称し、支山(しざん)でしたが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡し、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出されていました。 特に江戸時代には、この地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用して大阪の銅役所へ運ばれていました。