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地名をあるく 21.吹屋

ページID:0000632 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 成羽町「吹屋」は海抜約五〇〇前後の吉備高原上の小起伏の地形をした場所にあります。「吹屋」の中心は鉱山町で周辺には、水田や畑が点在し、西側には成羽川の支流坂本川が流れ、吹屋の町から下った成羽町坂本付近は新見市哲多町との境(峠)で分水界となっています。南北に走る坂本川沿いの谷底は、地質時代のうち新世代新第三紀中新世の海成層が分布していて坂本断層線谷となっています。また東側は高梁市宇治町で白石、大深、下谷などの集落を通って宇治へと県道でつながっていて近世の成羽村から吹屋村を通り、新見村へ至る吹屋往来の道でした。
 「吹屋」は元禄時代(一六八八~一七〇四)から明治にかけて西国一の名銅山・吉岡鉱山を中心とした鉱山町として、また近世中期から明治にかけての弁柄の生産と販売で栄えた町でした。現在に残る町並みは、江戸時代から明治初期の建物が多く、赤茶色の石州瓦の家並み、明治期の入母屋型妻入と、江戸期の切妻型妻入とが混在し、塗込造り弁柄格子の堂々たる町家が立ち並び、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 近世は川上郡「吹屋村」、幕府領として「石高九八石余」「但シ是ハ新田村」(「正保郷帳」=一六四五.四六頃)と初めて村名が出ています。畑作中心地域で耕地の生産力も貧弱だったようで、後の寛政六年(一七九四)の書上(大塚文書)に「吉岡銅山吹屋村之儀御高七拾石余之村方二而、て百姓竃百軒余ニ及び男女多勢住居仕御田畑者銅焼候而悪所多ク、中々農業斗ニ而渡世難相成、何れも銅山稼方相兼……」と書かれていて、「鉱山の村」として銅山稼ぎと農業の兼業の「村方百姓」として暮らしを立てていたのです。
 吹屋の銅山の始まりは一説には大同二年(八〇七)説があります。銅山稼ぎをしていた大塚理右衛門が寛政三年(一七九一)久世の代官の尋ねに対して答えた文書に「備中国川上郡吉岡銅山之義者、大同ニ年之は発山ニ而……」(「岡山県古文書集」=大塚家文書)と報告しています。もう一つの説は応永年間(一三九四~一四二七)という説で「前掲書」に「発山之砌者銀山ニ而……黄山之後大深谷に当時迄も相残罷有候銅山ニ相成四百年余ニ罷成候……文化元年十一月」とあって、銅山になったのは四〇〇年以前だから一四〇〇年頃が正しいのでは…という説です。小堀氏が備中を支配していた頃に徳川氏の「御手山」だった銅山を吹屋村に払い下げ、大塚伊兵衛に頭取を命じて「村稼ぎ」のやり方に変えています。この頃までは「関東銅山」(「石塔銅山」から変化した)と呼んでいた(「成羽町史」)といわれています。「吉岡銅山」の名は近世になって佐渡金山の吉岡山の名をとって改めたといわれています。
 天和三年(一六八三)頃から幕府は大坂の豪商和泉屋吉左衛門(後の住友)に請負わせ、経営方法を改めさせ、以後西国一の銅山となったのです。それから後は、早川代官の指導で再び大塚氏を中心にした地元銅山師が稼業し、後の明治六年(一八七三)には三菱が近代化した経営で再興し、明治から大正にかけて最盛期を迎え、日本三大銅山の一つとなりました。当時銅山の従業員は一三〇〇人だったといわれています。
 一方、宝永四年(一七〇七)に発見された弁柄(赤色顔料の一種)の生産も発展し「弁柄屋」も江戸末期には五・六軒と工場が一〇軒があって、西江・広兼・片山家などが株仲間を結成して量産・生産された弁柄は牛馬に積まれ吹屋往来を通り、成羽河岸の問屋まで運び出され、そこから高瀬舟で玉島港へと運ばれ、「吹屋弁柄」として有名だったのです。今に残る吹屋の町並みは、弁柄によって栄えた町といって良いのです。
 「吹屋」の「吹」という字にはふく、ふきかけるという意味があります。鉄や銅など金属を精錬し造り出すことを「鈩を吹く」といい「鞴」のことを「ふき」(吹)というところから精錬、鋳造に従事する鍛冶屋などの職人、施設のことを「吹屋」といいました。銅を精錬することを「銅吹屋」といったことに由来する地名なのです。
(文・松前俊洋さん)