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地名をあるく 24.台ヶ鼻

ページID:0000635 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「台ヶ鼻」は有漢町有漢にあって、有漢川の左岸に、南の有漢富士といわれる権現山(五九九・六m)のすそ野に位置しています。
 有漢付近は、中生代末に準平原化した(隆起準平原)といわれる老年期の小起伏面(吉備高原)を、有漢川が浸食して流れ、細長い河成段丘を中心に左岸・右岸に多短谷の地形が展開し、侵食された花崗岩でできた台地状の丘陵が有漢川に向かって突き出ていて、下流の巨瀬町片岡付近から上流の上有漢にかけて半島状の丘陵が多く見られる地域で、そのほとんどに「鼻」(「花」)地名があって特色ある地域なのです。中でも、「台ヶ鼻」は、その代表的な地形なのです。有漢中央の郷原の平地に半島のように突き出た「台ヶ鼻」は、海抜二〇〇m前後の台地状の丘になっています。この丘の東側は貞守地区、西側には城下の集落があって、南側の登り口には大藪堂という古びた大師堂が立っていて、中に「文化乙丑(一八〇五)十二月」の文字が刻まれた地蔵石仏などの石仏が並んでいます。堂の横の台ヶ鼻城址の案内板を後に、少し上がると中世の丘城の主郭だったと思われる壇があり、そこから北へと広くなり低く下がっています。今では、塁線がよく見えませんが、帯曲輪が何段かに配置され、主郭の東側と南西側は切岸のように急な斜面になっていて、南西側は「堀切り」(「有漢町史」)の痕跡をとどめ、往時の縄張りがしのばれるのです。
 台ヶ鼻城は、鎌倉時代に秋庭三郎重信が承久の乱(一二二一)の功によって、 地頭職を与えられ、有漢郷を賜って、台ヶ鼻城を築城したと伝えられ、その後、延応二年(仁治元年)(一二四〇)に秋庭氏が大松山に城を築き、松山城主となって以後は、城主代々の御仮台所になっていたといわれています(「備中誌」)。
 「台ヶ鼻」は、有漢支配の城を築くには展望がよく好適な場所だったのです。
 「台ヶ鼻」のほかの「鼻」(「花」)地名を上げると、国道三一三号から分かれて県道高梁旭線へ入った巨瀬町片岡に「長尾鼻」が出っ張っています。ここは多和山峠越えの古い道が登っている場所として重要な場所でした。そして、山形地区から北の市場へ向かって突き出る丘は「掛ヶ鼻」と言い、台地状の丘陵上に以前、高梁高校有漢分校(現・社会教育センター)がありました。山形付近の高原部は「野呂山形」、有漢川に面したところは庄屋山形氏の屋敷が残る「下山形」などの集落が点在し、横穴式の大鳴古墳や荒神社、綱島梁川の記念碑や五輪塔群があります。
 『「台ヶ鼻」の対岸には「中山鼻」があります。ハナヤという屋号もあり、また秋庭氏の館跡(正尺屋敷)の東側にも「竹ノ鼻」という地名があります』と、有漢公民館長・秋葉將さんは話してくれました。
 畦地地区に「立戸鼻(花)」と地名があって、山上様が祭られていたり、付近には弥生時代の集落跡・秋庭氏の菩提寺だった 清浄寺跡、そして五輪塔などが残っています。
 「立戸鼻 (花)」の対岸には「岩鼻」の地名があって室町時代の宝篋印塔などが見られる地区です(同秋葉さんによる)。
 このように「鼻」(「花」)地名が多い有漢は、有漢の地形の特色を表し、台地状に突き出た丘の周辺には集落が発達し、台地や丘の上には古くからの史蹟が残っていて、「鼻」(「花」)の土地利用が有漢の歴史や文化をつくったといえるのかも知れません。  「ハナ」の地名は全国的に分布していますが、「ハナ」には鼻、花、端、先、岬などの字が当てられることが多く、「山や土地の出っ張り」・「山や台地の突き出たところ」・「ものの端」を意味する自然地名(地形地名)なのです。こういう台地状地形の先端部分は古くから人の目につきやすく、目印にもなって人々に利用されやすい地形なのです。
(文・松前俊洋さん)