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地名をあるく 25.布寄

ページID:0000636 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「布寄」は、成羽町にある行政区の地名(旧大字地名)で、成羽町左岸の標高三七〇m~五〇〇mの吉備高原上に位置する地域であります。北には宇治町穴田や、成羽町中野があり、成羽川の支流坂本川を隔てて備中町東油野が、西の成羽川の対岸には備中町平川、南に備中町布賀や布施があります。
 「布寄」付近は吉備高原が侵食された小起伏面が広く発達していて、日本における準平原や侵食起伏面の地形を研究する上で、代表的な地域の一つなのです。中新世の末期に形成されたともいわれる高原面が破壊されて、吉備高原を数百メートル、V字状に深く削り、穿入曲流(山地が峡谷をなして蛇行していること)の峡谷地形が西側と南側に見られ、坂本川や成羽川は激しい下刻作用を見せていて、西の岸は急崖の谷壁となっています。
 また、「布寄」一帯には「中村台」といわれる石灰岩の台地が広がっていて、陥没したドリーネ(すり鉢状の溶岩凹地)群が連なり(ウバーレ)、深い谷状の凹地をつくっていてカルデラ地帯の特色を示しています。 
 「布寄」は穴田郷に属し、布寄村でした。毛利の支配後、慶長五年(一六〇〇)から元和三年(一六一七)まで幕府領(天領)でした。同年池田長幸が入封して松山藩領となり、続いて水谷勝隆が入封した寛永一九年(一六四二)から元禄六年(一六九三)が松山藩領(「成羽町史」)となっていました。「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五・四六年頃)には布寄村四一七石余・幕府領とあり、枝村に木ノ村・田原村・虻山村(阿部山)など六ヵ村があげられています。水谷が断絶する元禄六年から慶応四年(一八六八)まで、再び天領(幕府領)となっています。天保五年(一八三四)頃の「天保郷帳」には高五三四石余と記録されています。
 布寄に残る布寄城(中村城)址には、布寄左衛門尉の墓碑が建ち碑の裏に「天正三乙亥年二月十五日」台座に「備後尾道、石工田中平兵衛作」と刻まれていて、布寄氏は天正三年(一五七五)の備中兵乱の時、三村方に属し松山城で討死した(「備中兵乱記」)と伝えられています。また、西布寄には布寄城主一門の墓と伝えられる宝篋印塔があり、正平一七年(一三六三)の銘が刻まれていて、市の重要文化財に指定されています。そのほか多くの五輪塔も残っていて、古い歴史をしのばせてくれます。
 布寄神社は、茅ノ輪くぐりの行事や渡り拍子が伝えられ、以前はかなりにぎやかに祭りが行われた神社なのです。また、木ノ村にある国司神社西には石灰岩の侵食により出来た夫婦岩が岩壁に立ち、名所となっています。「布寄」は江戸時代川上郡布寄村、明治二二年長地村など四か村が合併して中村となり大字布寄、そして昭和三〇年成羽町布寄となった地域なのです。
 「布寄」という地名は、難しい地名の一つで数少ない地名なのです。地名は、長い間使われているうちに、当て字に変ったり、音があったものへ後から文字を当てたものなど分からない場合がよくあります。
 「布寄」の地名由来を考えると、?布寄左衛門尉という人名説?「布寄」や「布賀」の「布」は、節(フ)から「高い所」とか「盛り上がった所」という意味で用いられ、それに「寄」がついたという節の二つが考えられますが、よく分かっていません。
(文・松前俊洋さん)