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地名をあるく 29.間之町

ページID:0000640 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「間之町」という地名は、現在の高梁市間之町で市立図書館や中央公園、曹洞宗安正寺などのある向町の南に位置して、城見通りを隔てた西側には荒神町、甲賀町、八幡町があります。
 そして「間之町」の東側一帯は?山陽オカムラの工場が占めていてこの町の昔の面影はなくなっています。
 近世、松山城下時代には「 間之丁」と称されていて、家中屋敷町の一つでした。
 元禄時代(一六七七~一七〇四)初め頃の記録と言われる「 水谷史」(「御家内の記」)には「間之町」の町名の記録が見えず、延享元年(一七四四)頃の「松山家中屋敷覚」(市立図書館)にも、西側の荒神丁「一四軒 内 一三軒家中屋敷、一軒給人屋敷」、そして甲賀丁「一五軒 内 八軒家中屋敷」、八幡丁「…」などなどと書かれてはいるが「間之丁」は出ていません。
 この時代には「間之丁」はまだ取り立てられていなかったことが推察できるのです。
 また、同じ頃の正徳元年(一七一一)~延享元年(一七四四)の石川総慶時代の「松山城下絵図」(○写市立図書館)にも、荒神丁の道筋が東に延びる北側の向丁と南の「間之丁」側には「御先手組長屋」がその南に「 芝稽古矢場」が描かれているだけで、まだ「間之丁」の屋敷町は出来ていないのです。
 その後、嘉永二・三年(一八四九・五〇)頃から安政初年(一八五四)頃の「 昔夢一班」によると『「西間之町に八軒の家中屋敷、「中間之町」に一五軒、そして「東間之町」に一二件、うち二軒は合長屋」とあり、荒神丁の道が東へ突き当った場所に、制札場が記録されています。
 江戸末期の板倉氏の時代になると「間之丁」が家中屋敷町として記録に見えていることから正確には分かりませんが、板倉氏時代に城下町の一つとして取り立てられた町であることが考えられます。
 また、天保一〇年(一八三九)二月二九日「間之丁」の足軽長屋から出火、 外曲輪の侍屋敷や神社、高札場、番所、長屋、寺五ヵ所、町家二九八軒、土蔵四〇ヵ所などなど城下町が広く焼失した松山城下最大の火災が起こっています。(「増補版高梁市史」)その後復興した頃の「幕末の絵図」(市立図書館)には、柿木丁から南の道沿いに「西間之町」、その東(現・市立図書館の南)の道の東西は「中間之町」、荒神丁の通りを東へ突き当った場所に制札場、その前の南への道沿いに「東間之町」また「中間之町」の南側に「 同心丁」が描かれています。このどうしんちょう「同心丁」は板倉時代に同心組の長屋として取り立てられたものですが、明治になって「間之町」と合併しています。
 今では「間之町」には、古い家もなくなり、昔の家中屋敷町の面影はなくりましたが、堅町型の町割の南北二列の道と小路が一部残っているだけになりました。
 幕末から明治にかけては、奥田楽淡や吉田寛治の開いた私塾や、林如酔、中根寅太郎などの寺子屋などがこの町にありました。
 「間之町」という地名の意味ははっきりしませんが、?には「間」という文字には「あいだ」とか「しずか」とか「時間的にへだたる」「はなれる」などの意味があり、他の町より時代が遅くなって出来た意味から付いたという説、?には、「 間 」は「合」「相」の転化したもので「湿地」を意味することに由来しているという説で、確かに江戸時代にはこの付近が湿地だったのです。
(文・松前俊洋さん)