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地名をあるく 37.川関

ページID:0007957 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 有漢町に「川関」という地名があります。東方の飯ノ山(五〇八m)のふもとに源を持つ有漢川の支流・川関川の流域に位置する地域であります。

 東には吉備中央町(旧加茂川町)の溝部や福沢などがあり、北には備前、備中、美作の国境に位置する三飛峠(約四六〇m)が、そして旧落合町や旧北房町の宮地、入鹿高原などがあります。

 川沿いに走る県道栗原有漢線は、土居から「川関」を通り、三飛峠を越え、栗原(旧落合町)へ抜ける主要な街道で、古くは「木山道」ともいわれ、木山詣の道でした。また旭川の川湊から上る瀬戸内の塩を買いに行く「塩の道」でもありました。今でも道の分岐点に草におおわれた「右はびぜんかも左ハさく志う木山道」と書かれた道標が残っています。

 「川関」から東方には、吉備中央町加茂川との境に一段と高くそびえて、川関のシンボルになっている飯ノ山があります。

 「川関」の中世は、戦国時代になって毛利の支配を受けたといわれ、飯ノ山には飯ノ山城址があって、当時、重要な場所として飯山兵部尉が居城していた(「上房郡誌」)ともいわれています。

 近世になると、慶長五年〜元和三年(一六〇〇〜一六一七)頃には幕府領となり、小堀氏が奉行として慶長の検地を行いました。この時の村高は三〇五石余となっています。後の「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五〜四六)では、川関村の名が見えて、上有漢村の枝村となっています。寛永一九年(一六四二)から水谷氏の支配となって延宝(一六七三〜八一)の検地が行われ川関村の石高が五三四石余とあって、慶長の頃より二二九石余も増加しています(「有漢町史」)。また、元禄検地(元禄七年=一六九四)では七二四石余と記録されていて、水谷氏時代の二倍余増加し、石盛も増加した上、元禄八年(一六九五)は凶作だったこともあって農民の負担は増大し、大変な生活苦となったため幕府に嘆願書を出しています(「前掲書」)。元禄期の川関村の屋敷数一一六、家持百姓数一〇二(「前掲書」)となっています。

 その後、延享元年(一七四四)松山藩主石川総慶が伊勢亀山藩に転封となり「備中国御残領」となって川関村は七二五石余で伊勢亀山藩領となりました。

 「川関」地区の鎮守は弘仁元年(八一〇)本多義光の創建といわれる諏訪神社でかつて月山に鎮座していたが、天正二年(一五七四)毛利の飯ノ山城攻撃で焼失したため寛文一一年(一六七一)現在地に再建したと伝えられています。鳥居の手前に「川関享保十」などの文字の見える手洗鉢が、そして「嘉永三戌三月吉日」とある石灯籠が立って、地域の人々の信仰の厚さがしのばれるのです。

 天明年間(一七八一〜八九) 頃の庄屋綱島長蔵はききんで苦しんでいた農民救済のための中津井代官所へ直訴して成功したが、後、追放されたといわれ、今でも綱島屋敷跡の上に墓が立っています。

 「川関」という地名の由来は、「川関」への入口付近の茶ノ木原地区の川の真中にあった(現在道路の壁に埋もれている)大きな岩が川をせき止めていたので、この岩を川関岩と名付けたとか、下流の川が狭く交通を遮断していたので、川関と呼んだとかいわれています(「有漢町史」)。「関」と付く地名は多く、関所、堰(川の流れをせき止めた所)溝、挟まった所(塞)などの意味が多く、いずれも「せき止める」の意味なのです。地元に伝わる由来説はどちらともこの意味に合っているのです。
(文・松前俊洋さん)