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地名をあるく 38.七地

ページID:0007959 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「七地」は成羽川の支流、領家川の左岸に位置していて標高四〇〇〜五〇〇mの緩やかな波浪状の地形をした吉備高原上にあります。地頭から上ると地形は起伏に富んでいて下刻作用の激しい開析谷は深さが一〇〇mに近いところもあって、まさに小起伏と多短谷に地形が広がっています。そして、菅野地区や天王地区、加根谷地区の周辺には「高山石灰岩」(または「成羽台」)といわれる石灰岩が分布していて、すり鉢状になった窪はドリーネが発達していて、底には「ポノール」と呼ばれる円形の吸い込み穴が見られるのです。大きな窪地(ウバーレ)はドリーネが広がり連結したもので地底に地下水が流れ込み、洞穴をつくり鍾乳洞が形成されています。代表的な例は、国指定の名勝となっている磐窟渓で中腹には大きな鍾乳洞が口を開けています。このような窪地地形(小盆地)の斜面や丘の上に集落が点在しているのが「七地」なのです。七地」には小起伏の地形を表現する迫・谷・窪・久保・峠・畦・上・下・曽根などがつく地名が大変多いのです。各地区をつなぐ道は窪を見下ろす高い位置を通っていて道の辻には地神塔や観音仏や牛を陽刻した道標が残り、荒神堂や太師堂が祭られ往日の村人の信仰の厚さを知ることができるのです。

 「七地」は和名抄によると下道郡弟(手)翳郷に属していましたが後、五郷が分離独立して川上郡となりました。室町時代には京都相国寺の荘園だったことが分かっていて「七地」はその支配を受けていました。備中兵乱(一五七四〜七五)の時、毛利の武将小早川隆景の軍勢によって「七地」にあった国吉城の三村政親が天正二年(一五七四)一二月三一日に滅ばされ、標高四二〇の要害だった砦が落城したのです。この城は安藤太郎左衛門元理が元弘年間(一三三一〜三三)に築城したと伝えられる中世の山城で今では八つの壇が残っているだけで原形は失われていて、三村氏一族の供養碑がポツンと立っています。まさに「兵どもが夢の跡」となっています。戦国期の「七地村」は、宇佐八幡神社で弘治三年(一五五七)に定めた「御当番相勤申次第」(「川上町史・史料編」)の文書が残っていてそれによると神社の当番を笹原名、菅野名など九の名で交替して勤めていたらしく、当時は特定の家が神事を独占していたことが分かるのです。この永山宇佐八幡神社の本殿は宝永五年(一七〇八)建立と伝えられ古い様式の拝殿には軒唐破風がつけられています。近世になると毛利の支配から糟谷氏そして慶長一六年(一六一一)から幕府直轄地となり小堀正次が支配、その後元和三年(一六一七)松山藩領となり池田長幸の支配から再び幕府領となって代官米倉平太夫の支配となり、元禄六年(一六九三)から旗本水谷領となって明治に至っています。石高は「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五・四六ごろ)では、三九九石余だったが「天保郷帳」(天保五年=一八三四・「備中誌」)七三八石余「旧高旧領取調帳」では七〇三石余と増加しています。「七地村」は明治一〇年(一八七七)には布瀬村と合併して七瀬村となりましたが、同一四年には再び分村して「七地村」となり、明治二二年には手荘村の大字となって後、手荘町の大字、そして川上町「七地」になったのです。

 「七地」という地名の「七」は「ななつ」を意味することは確かですが「七」は「数が多い」という美称としてよく使われ、「七福神」「七賢」「七堂」などがその例です。また「斜め」の略した意味としても用いられて傾斜地を意味する地形地名としてもよく使われます。

 曹洞宗常相寺(天王地区の字風呂谷にある)の草創の「譲翁形部公が手之庄七か村を領知したとの記述」(「川上町史」)に七か村を領したことから「七地」となったという地名説があります。もしかすると地名の由来はこれが正しいのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)