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地名をあるく 39.川面

ページID:0007961 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回取り上げる「川面」は、現在の高梁市川面町で高梁川の左岸に位置しています。上流の広瀬地区の付近から下流の川面市場・鳴戸付近にかけて高梁川が吉備高原の山々を浸食し、穿入蛇行して流れ、左岸の河成段丘上に人口が集中する地域を中心に、山間部の八石、家地、鴨谷、中田、桐山、高田、井才などの地区で構成されたところなのです。吉備高原上にある中山、井才付近一帯は、昔浅い海だったのが隆起したことを物語る新生代第三紀中新生(約二六〇〇万年前)の代表的な示準化石といわれる、ウミニナの仲間でビカリアという巻き貝の化石が発見されています。

 中世になって「河面」の地名が見られるようになります。「備中兵乱記」にも松山への通路として「河面」が書かれ「芸陣薙麦事附松山勢心替之の事」の中に「天正三年(一五七五)四月七日松山城より北西にあたる「河面」の寺山城に総陣を移した毛利勢が巨瀬東西の麦を薙いでいる」などと書かれ、戦国以降の郷帳類にも「河面」と書かれています。

 「備中兵乱記」に出ている寺山城は、市場集落北方の四つの峰を中心に城跡が残っていて現在も地元の人々によって保存されている中世の山城で、当時の縄張りが残り、主郭、西の丸、東の丸、馬場などや当時の土木工事を語る腰曲輪 (郭)や、複数の堀切、切岸などの痕跡が東西南北二キロ以上に渡って寺山(城山)山頂に残されている貴重な史跡なのです。この砦は室町初期の応永年間(一三九四〜一四二八)四国から来た三好阿波守尊春が築城したと伝えられ、嘉吉元年(一四四一)落城し、尊春も敗死したと伝えられています。その後、室町時代の終りから安土桃山時代の頃に松山城の支城となったらしく、天正三年(一五七五)四月七日備中兵乱の時、城主であった杉三郎兵衛は、三村方について毛利軍と戦ったが、毛利方の小早川隆景によって落城したため松山城に籠城し、その後、毛利方は天正三年五月二七日陣を寺山城へ移して、古瀬一帯の麦を薙った(「前掲書」)といわれています。

 寺山のふもとの田路迫には三好尊春の開基と伝えられる曹洞宗吉祥寺があります。三好尊春の位牌が祭られ、法名は「吉祥寺殿傑叟是雄大禅定門」となっていて寺名にもなっています。寺山のふもとの集落は、この城を中心とした小さな城下町として発展したのでしょう。

 近世になって「川面」の市場地区は川船交通の川湊として発達しました。生産物の交易場所としての谷口集落でもありました。また新見往来の本道が津和谷から市場を通り北の秋葉峠を越えて西方村(現・中井町)へと通り、副道も川面で別れ田井村(現・高倉町)へ渡って高谷から山間を北上していて、交通の要衝でした。上房郡のうちの川面(河面)村として、江戸初期の石高は「正保郷帳」によると河面村五七一石余り、古瀬杉分村五六四石余となっています。幕末の「天保郷帳」では、杉分村も一緒になり「川面村」として二一三四石余と記録しています。

「川面村」東西二里余、南北二里半余、小名に原手、鴨谷、鳴渡、板分(杉分?)、茶屋をあげて枝郷として八石、広瀬、津和谷、そして特産物は西条つるし柿を記しています(「備中誌」)。産土神は大元八幡神社で貞観元年(八九五)創立と伝えられていて、「吉備津神社文書」の「上房郡祭礼日限注文」(「岡山県古文書集」)に「河面村大元八幡御祭八月二五日、神主大本大夫大元八幡宮ト申テ大社也」と記録され、中世には巨勢庄の総鎮守だったといわれる古社なのです。

 「川面」という地名は県内に多く、いずれも川に関するもので、川(カハ)面(オモテ)は「川のそば」を表す地名で昔から洪水に悩まされたり、魚業や高瀬舟の港で栄えていたりなど、高梁川と関係の深い地域を表す地名なのであります。
(文・松前俊洋さん)