「玉」は、玉川町の大字地名の一つで、近世の「玉村」に当たる地域であります。高梁川の右岸にあって西から大谷川と増原川が玉川となって流れ、高梁川へ合流している付近に、勘場、舟津、寺の下、大沢などの集落と上流の高梁側と成羽川が合流する付近に神崎の集落があります。
「玉」の古代や中世の歴史は明らかでありませんが、「大日本地名辞書」に、「和名抄」の下道郡呈妹郷が書かれ、その呈妹の庄が川上郡「玉」に転じたものだと説明しています。「大嘗会和歌集」に玉村が詠まれていて(「備中国名勝図会」・「備中誌」・「川上郡誌」)、「後一乗院長和五年(一〇一六)十一月二日、主基備中国」として善滋為政の歌として「くもりなき月日にそへていとどしく(益々)光まされる玉の村かな」、また玉田村として永承元年(一五〇四)の藤原家経の歌に「水きよみ玉田の村に家ゐしてううるさなへは長ひしのいね(稲の名)」の古歌もあって、当時、この地域を「玉村」とか「玉田」、「玉田野」などと呼んでいて、主基方(近江・丹波・備中に固定されていた)の名所として詠まれています。
また、戦国期に「玉」の地名が見え、「備中兵乱記」に松山軍之事天正三年(一五七五)三月一六日卯の刻(午前五時〜七時)毛利勢が高梁川右岸から左岸へ打ち渡ったところが「玉の渡り」と書かれています。舟津には標高二四五mに「玉の城山」があって、小規模ながら堀切りや土塁と思われる削平地が残っています。
近世には、幕府直轄領、元和三年(一六一七)成羽藩領、寛永一九年(一六四二)水谷氏の松山藩領、その後再び幕府領、元禄八年(一六九五)再び松山藩領となり、安藤氏、石川氏、板倉氏と移り変わり明治を迎えています。石高は「正保郷帳」(一六四五〜四六)では一三〇石余、「天保郷帳」(一八三四)では二八八石余、「備中村鑑」には、板倉周防守様御城下として玉村二八七石余、庄屋堀理代太と書いています。
舟津は矢掛往来の入口として、また松山村への渡し場として、高瀬舟の川湊として栄えた反面、明治二六年(一八九三)には大洪水で多くの被害を被っています。
寺の下には康永二年(一三四三)創建といわれる玉泉坊(真言宗)が、勘場には康永二年銘の石塔婆のある八幡神社があります。舟津にも康永二年の古い石塔婆が残っていて、康永の頃にこの地に阿弥陀信仰が根付いていたことが思われるのです。神崎には高瀬舟の船頭の信仰で知られる神崎神社があります。
「玉」という地名の由来については、(1)古代地名の「呈妹」が「たま」になった。(2)入江に水がたまる意味から「たまり田」「玉田」または「玉田野」と呼ばれ、「たわんだ地形」を意味した。(3)「たま」の地名は多いが、接頭語や当て字で「宝の石」とか「勾玉」など神器の一つとして神聖たまなシンボルの意味として、また「たま」は「霊」「魂」に通じて神聖な場所の意で神社をさした。などの由来説が考えられるのです。
(文・松前俊洋さん)