「甲賀」は現在の高梁市甲賀町、甲賀町は城見通りと鍜冶町通りを結ぶ東西の小路を中心に南側と北側に町屋が並ぶ行政区域で、近世城下町時代には「甲賀丁」と呼ばれた家中屋敷町でした。南北の竪町型の城下町の中では、北側の荒神丁や南側の八幡丁と同じように、東西の町筋を持つ横町型の町割となっている地区なのです。甲賀丁は元和三年(一六一七)池田備中守長幸が6万5000石で入封してから下級武士の屋敷地として取り立てた町で「元禄七年(一六九四)正月改め」によると甲賀丁長さ一町四二間半、家数一二軒があった(「水谷史」=「御家内之記」)その後の正徳元年(一七一一)から延享元年(一七四四)頃の、石川総慶時代の「松山城下絵図」写(亀山市立図書館)によると家中屋敷六軒と明屋敷二、長屋一が描かれています。また、「延享元年六月調」の「松山御家中屋敷覚」(市立図書館)には甲賀丁一五軒とあり、内八軒が家中屋敷、梁行(棟と直角の長さ)二間の一棟長屋が七あったと記録されています。この一棟長屋はのちになって間之町になっています。「増補版高梁市史」によると元禄六年(一六九三)の水谷時代、家数一二、世帯数一二、延享元年石川時代、家数九軒、世帯数六とあって(前掲の史料とは少し異なるが)板倉時代の慶応(一八六五〜六八) 頃は、家数八軒、世帯数八となっています。「昔夢一班」には嘉永二〜三年(一八四九〜一八五〇)頃から安政初年(一八五四)頃のものとして、福田江織ほか六軒と南東角の柔術道場をあげていて、真孝流柔術織田杢兵衛や身捨流柔術村田半兵衛・雨森五兵衛など諸流派の師範名があげられ、他藩からの修行者も出入りしていたといわれる武家町だったのです。
甲賀丁は明和五年(一七六八)間之町から出火した火事で一部(二軒)が類焼に遭い、幕末の天保一〇年(一八三九)の大火では町が全焼しています。(「松山御城主暦代記」=市立図書館)、また嘉永六年(一八五三)から文久元年(一八六一)にかけて有終館学頭だった進鴻渓が甲賀丁に私塾の静修舎を開いて漢学を教えています(「増補版高梁市史」)。
「甲賀」という地名は、和名抄には「カウカ」と訓の注をつけていて、古くは「こうか」と読んでいたのかもしれません。地名の由来として考えられる近江国甲賀郡の甲賀流の忍者(忍術を使いスパイ活動をする者・忍びの者)の里の地名を取って武家町の丁名としたといわれていますが、「甲賀者」といわれる柔術の武士が居たのかもしれません。それとも「伊賀」の地名に対して付けたということも考えられるのです。ともかく幕末には町の一角に柔術道場があって他藩からの修行者も出入りしていた「甲賀丁」だったのです。
(文・松前俊洋さん)