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地名をあるく 45.油野

ページID:0007984 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「油野」は備中町にある「東油野」「西油野」の二つに分かれる大字地名が分布する地域で、ほとんどが標高三五〇〜六〇〇mの侵食小起伏面の吉備高原上に広がる地域と、わずかに準平原の高原面を侵食して流れる断層谷の坂本川に沿った「田原」(拙稿「地名をあるく二七『田原』」参照)付近の狭い平地が見られるところです。

 北には成羽町との境に七七七・六mの残丘的性質をもっている天神山がそびえています。

 平安時代の「和名抄」にある「下道郡湯野郷(「由乃」と訓がある)」は現在の東油野・西油野・西山付近が遺称地だといわれていて、古くは下道郡一五郷の一つ湯野(由乃)郷だったのです。中世にも「由乃」の地名で呼ばれていたらしく、文禄五年(一五九六)に写したといわれる応永元年(一三九四)の「吉備津宮惣解文」(「吉備津神社文書」=「岡山県古文書集」)に「河上郡由乃郷大般若経供養布施葛木若王丸」とあり、由野郷の地名が出てくるのです。

 近世になると東油野・西油野の地名が記録され慶長五年(一六〇〇)から幕府の直轄領、 元和三年(一六一七)からは松山藩領、その後万治元年(一六五八)から文化九年(一八一二)まで再び幕府直轄領の時代となっています。文化九年の末から天保九年(一八三八)の間は幕府領で津山藩の預所、そして天保一〇年から幕府直轄領となって明治を迎えています。「正保郷帳」(一六四五〜四六)では東油野村が高五七九石余、西油野村七五四石余と記録していて、幕末の「天保郷帳」では東油野村八七八石余、西油野村一〇五〇石余となっていて石高が激増して、当時の地域の暮らしは大変苦しかったといわれ、しばしば干害に見舞われ、土地の生産性は低かったのです。天明元年(一七八一)や天明三年・五年・六年・七年など、大洪水、大干ばつなど前代未聞の凶事が繰り返されて生活が困窮したのです。天明元年(一七八一)には東油野庄屋小十郎などが五か村の総代として久世の代官所に「乍恐以書付御嘆奉申上候」と嘆願書を提出しています「備中町史」)。

 近世の油野村は、東油野村東組・西組、西油野村東組・西組と分けて石高や戸数をあげていて(「備中村鑑」)、いずれも備中漆の産地として、また 楮年貢も多かった地域だったのです。

 西油野の産土神は小幡山八幡宮、東油野は平田山八幡宮で、いずれも渡り拍子で有名です。また、本郷にある観音寺は聖観音菩薩を本尊とした真言宗の寺で、青銅製の鰐口は南北朝の頃のもので県の重要文化財になっています。

 近代になって、東・西油野村と西山村が合併して湯野村となり、村の中心は西油野の本郷でした。

 「油野」の地名の由来にはいろいろな説があります。(1)「湯」が出るのではなく「ユ」は「●(ゆ(さい))(●は「文」の下に「示」と書く)」(いわう・神をまつる)から生まれたもので、神聖な土地を意味するというもの(2)弓を射る場所の意で神事にちなんだ泉(水)のある土地の意味である、などがいわれていて文字はいずれも当て字なのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)