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地名をあるく 53.坂本

ページID:0008002 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回は、成羽町「坂本」を取り上げます。

 「坂本」は成羽川の支流、坂本川の上流地域に位置しています。

 この地域の集落は北の峠(分水嶺)から南へ流れ出る坂本川に沿って分布しています。左岸・右岸には高い山が迫って耕地も少なく、わずかな畑と棚田状の水田が見られる谷間の地区です。付近の地形で、坂本川の谷底部は標高二三〇〜三五〇mぐらいで新生代第三紀、中新世(二六〇〇万年前)の海成層が分布していて、南北方向に走る坂本断層線谷となっていて、地形的には考究する上で代表的な地域となっています。また、坂本地区から西側に山頂部分がそそり立つ山が、成羽町坂本と備中町油野の境となっている天神山(七七七m)で、この付近では最高峰の山であり、古生代(二億二五〇〇万年前〜五億年前)のチャートから成っている残丘なのです。

 「坂本」の中世はよく分かっていませんが、「吉備津神社流鏑馬料足納帳」(吉備津神社文書=「岡山県古文書集」)に康正三年(一四五七)分として「壱貫二百文 あなたさか本かくす所 公文所代官しらす候」とあって「坂本」の記録が出てきます。

 近世では、「備中集成志」(宝暦三年=一七五三成立)によると「御蔵、米倉平大夫(倉敷代官)、坂本村高三百二十八石」となっています。江戸時代の慶長五年(一六〇〇)〜元和三年(一六一五)は幕府領(天領)でしたが、池田氏の支配(一六一七〜四一)、続いて水谷氏の時代(一六四二〜一六九三)の七五年間は松山藩領となっていて、その後、元禄六年(一六九三)〜明治四年(一八七一)の一七八年間は、再び幕府領の時代となり、江戸時代の約三分の二は天領の時代だったのです。「坂本」に吉岡銅山が存続していたことと、寛政年間(一七八九〜一八〇〇)以後、 弁柄が盛んであったために、幕府はこの地域を重視して手放さなかったことが考えられるのです。寛政三年(一七九一)頃、川上郡に十二カ村あった天領を西組と東組に分けていて、坂本村は中野村、吹屋村などとともに東組に属し、石高三七五石余りと記録されています(「成羽町史」)。これは、天領村々の深刻な農村不況打開の知恵だった(「前掲書」)といわれています。この時代の坂本村は耕地も少なく、土質も悪く農業に向かなかったといわれています。

 草山は牛馬の飼育が行われ、新見往来筋だったこの村では、駄賃稼ぎに利用したといわれています。豊富な山林の雑木は薪炭生産に利用され、ローハ(硫酸鉄)の生産が盛んになるとともに、銅の生産も行われていたので、その燃料として薪炭の需要が多くなり村の副業となっていました。早川代官の頃、吉岡銅山を請け負った大塚理右衛門は排水路を開さくして坂本村に流したため鉱毒を含む水によって坂本村に被害が出て鉱害問題となり、それを補償するための補償金の収入が村の財政や人々の暮らしを支えたといわれています。

 弘化三年(一八四六)再興の社殿といわれる辰口八幡宮があり渡り拍子などで有名です。

 享保頃(一七一六〜三六)からこの坂本の地に屋敷を造ったといわれ銅山の経営、ローハの製造で栄え、駅馬や代官御用所を兼ねた庄屋の西江邸があります。

 昭和二七年に閉山した吉岡銅山跡が残っています。

 「坂本」の地名は、「坂」は「傾斜して勾配のある所」とか「山の峠」を意味して「境」(さかい)のことなのです。「峠の境のふもとにある所」から「坂のもと」とか「坂の上り口、下り口」を意味する地名なのです。
(文・松前俊洋さん)