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地名をあるく 55.原田

ページID:0008006 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回取り上げるのは、落合町「原田」。「原田」は成羽川左岸の標高三五〇〜四五〇mの吉備高原上に位置しています。

 近世、川乱は松山藩領の川乱村でした。原田は成羽藩領原田村でしたが、明治一四年(一八八一)に川乱村を合併し、明治二二年(一八八九)から現在の大字名になっています。

 近世の原田村は川上郡に属し、慶長五年(一六〇〇)幕府直轄地、元和三年(一六一七)成羽藩領、寛永一九年(一六四二)再び幕府領、そして、万治元年(一六五八)、旗本山崎氏(豊治)領(後の成羽藩領)と移り変わっています。正保二・三年(一六四五・四六)頃の「正保郷帳」によると村高八九石余、天保五年(一八三四)の「天保郷帳」には石高一八九石余としていますが、文久元年(一八六一)、刊の「備中村鑑」には、高・一六〇石余として庄屋藤沢亀蔵を挙げています。原田村は耕地も乏しく、石高が最も少ない村だったのです。

 文久三年(一八六三)には、松山藩領の川乱村と成羽藩領の原田村との間で、村の境界に関する争論が枝村だった野呂谷をめぐって起こっています。(「増補版高梁市史」)、事の起こりは、原田村三松の分家の茂作が、松山藩領川乱村との境界辺りへ居宅を構えたことから始まった。境が入り組んで紛らわしい場所で、川乱村庄屋治兵衛の持山続きのところだったが、治兵衛は、領分領主は違っても一つの村と同じ間柄なので話し合いたいと申し出、茂作側も同意したが、村役人は、領主の大境目なので―といって、宇治村庄屋作太郎・成羽領側から数村庄屋忠太郎を立会人として見分させ、双方納得の上、境石を改めて「取替申内済規定」を定めて、争論は決着したといわれています。

 「原田」は明治二二年落合村の大字となり、昭和二九年から落合町原田となっています。現在、高齢化により、戸数が減り、過疎化の激しい地区となっています。

 「原田」や「原」の地名は各地にあります。「原」は「広」「平」「開」と同じく、平らで広い所…、または平坦地…を意味することが多いのですが、湿地のような低地ではなく、草が生い茂るような場所で「原田」のように高原上にある窪の低地に広がる平らなところ・開かれた地域を表現した地名なのです。
(文・松前俊洋さん)