今回は有漢にあった古い地名、「上村」を紹介します。
「上村」は、近世になって江戸期から明治八年(一八七五)まであった村名の一つで、当時、有漢川の流域に沿って北から「上村」「中村」「下村」の順に分かれていましたが、この三つの村は上房郡下有漢村に含まれていました。
「上村」は近世下有漢村の上手北側で、現在町の中心部である有漢市場から上流の土居付近までを占めていました。江戸初期(正保二・三年頃=一六四五・四六)の「正保郷帳」によると、下有漢村として石高一〇八〇石余と記録され、江戸後期の天保五年(一八三四)成立の「天保郷帳」には「下有漢上村」一二〇一石余と記録していて江戸時代の末には村高がかなり増加していることが分かります。「備中村鏡」によると、延享元年(一七四四)までは松山藩領でしたが、同年から一九〇石余りが中津井陣屋伊勢亀山藩領、残り一〇一〇石余りは上有漢村松山藩板倉氏領としてあげています。また、松山藩領分のほか、七カ寺分除地(年貢諸役を免除された土地)をあげ、庄屋に綱島惇二や庄氏が記されています。また、慶応期(一八六五〜六八)から明治四年(一八七一)の「旧高旧領取調帳」にも、有漢上村松山藩領分一〇一〇石余・倉敷県、此外寺除地七か寺ありとして一三石余、そして亀山藩領分一九〇石余、亀山県としています。有漢上村の史料が乏しいため、詳しくは分かりませんが、「有漢町史」によると当時、亀山藩領の家数は二〇戸だったといわれています。
現在、有漢の中心となっている市場は、古市という地名も残り、当時一二月二六日(旧暦)に、 鰤市が開かれ、下中津井村の鰤市とともににぎわいました。その上、松山から加茂川への街道筋と落合往来の峠越への分岐点としての宿場町や門前町として、市場町として、集落が発展した地区なのです。明治時代「新井屋」という豪農の家で生まれ、日本を代表する文芸の思想評論家として、「早稲田の梁川」として広く知られた、綱島梁川の出身地でもあります。
畦地地区には、永保年間(一〇八一〜八四)の創建といわれ明応四年(一四九五)に秋庭真光が再興した臨済宗真光寺、そして茶道には秋庭氏とかかわりがあり永享五年(一四三三)に開基と伝えられる臨済宗保寧寺(本尊は千手観音菩薩)があります。慶長九年(一六〇四)には小堀政一(遠州)が、父の政次の供養のため再建したともいわれる寺です。土居には、秋庭氏の居館だったと伝えられ、のちまで秋庭三郎重信とその子孫が住んでいたといわれている正尺屋敷跡があります。
対岸の小山には備中兵乱の時、新山玄蕃允家住が居城し三村元親に従い戦死したという常山城跡が、正尺屋敷前の道のほとりには秋庭氏の先祖供養のために造立したといわれる、元禄一六年(一七〇三)の秋庭重政建立の花崗岩製石塔があります。また真言宗宝妙寺は天長年中(八二四〜三四)空海の開基とされ、松山城主秋庭肥後守重明の信仰が厚く延文五年(一三六〇)に本堂再建したといわれ、現在の本堂は松山藩主板倉勝静が安政二年(一八五五)に再建したものです。ほかに鈴丘の山上には、秋庭三郎重信が社殿を改修したといわれる鈴岳神社があります。かつては有漢六カ郷の惣氏神だった神社であります。
現在の有漢町は明治八年成立の有漢村と同九年成立の上有漢村が昭和三一年(一九五六)合併して成立したものです。
「上村」という地名は各地にあっておなじみのものですが、 上・中・下とか、前・中・後そして、陽・陰などは、位置関係を示す地名としてよく使われています。
「上」は神とか紙という字を当てることもありますが方向や位置を示す地名として高い所、川の上流、または北方とか、太陽の昇る方とか、中心からの交通経路などをあらわすのに使われる地名なのです。「有漢上村」も有漢川の上流に位置していることを意味したものなのです。
(文・松前俊洋さん)